
伊藤野枝、という存在をどのくらいの人が知っているだろうか。三十代のはじめごろ、高知県の海に遊びにいった時、知り合った夫婦に小さな女の子がいて、その子の名前が「野枝」だった。一緒にいた友人が「もしかして、伊藤野枝からとった?」と問うと、まさにその通りだった。私はめずらしい名前だなと思ったくらいで、素通りしてから約十年経った今、野枝の存在が好きで娘にその名前をつけたと言っていた母親に、驚愕の思いを抱かずにいられない。
本書は、伊藤野枝の生涯を書いた一冊だ。明治から大正にかけて、二十八歳という短い人生を駆け抜けた。アナキスト、女性解放運動家、作家、そしてひとりの女として、また母親としては、前夫・辻潤との間に二人、後の夫で無政府主義者として活動していた大杉栄との間には五人の子どもをもうけた。波瀾万丈と簡単には言いきれない。波に揉まれてというより、むしろ、母親の背中に負ぶわれていた赤ん坊の時から、一本堅く筋の通った自らの意志に従って、死ぬ間際まで真っ直ぐに、そして真っ当に、軽んじられてきた女性のために、労働者のために歩んだ人生だ。その人生がとにかく濃く魅力的に思えるのは、彼女と関わった多くの人たちもまた、個性際立つ存在であったからだ。それは夫・大杉や、婦人月刊誌『青鞜』の一時代を共に築いた平塚らいてうのように名が立つ人物だけでなく、野枝の母親や叔父といった家族など身近な市井の人物たちの存在が、たびたび一人称に上がってくることで、より躍動感が起こる。六五一ページという分厚さながら、熱中して一気に読めるのはそのためだろう。
異なる目線といえば、辻潤との間に生まれた長男・辻まこと(本名・辻一)の生涯を小説にした西木正明著『夢幻の山旅』には、母親に捨てられたという辛さ、死ぬまで苦労を掛けられ続けた父のこと、異父兄妹・魔子との出会いなどが書かれ、伊藤野枝の輪郭がさらに興味深く浮かび上がる。また、登山好きの私としては、辻まことは温かな画風で山の場面を描いた画家としての印象が大きかったので、ここにもひとつ、波瀾万丈の人生があることに驚きもした。
「社会主義かぶれ、どころではない。野枝こそは、自分たち同志の誰よりも──もしかすると大杉よりも正確に、社会主義というものの本質を肌に染みこませていたのではないか」。不倫騒動のすえに大杉と夫婦になったことも含め、女の味方でありたいと思いながらも、かつて友であった同性からすら存在を詰られ否定されてきた野枝だが、最期まで側にいた同志は、頭で考えただけでない、生まれた時から彼女が身体に染みこませてきた本質を見抜いていた。身体の芯からほとばしる熱量によって動きつづけた野枝は、限りなく自由に生きた存在なのかもしれない。娘にその名前をつけた高知の友は、その自由に、肖ったのだろうか。
「小説幻冬」2021年2月号
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