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ネコがいっぱい

2022.02.22 公開 ポスト

『猫だましい』

死は自分に属さない -「足元の神」ハルノ宵子

自身の一筋縄ではいかない闘病と、両親の介護や看取り、数多の猫や大切な人との出会いや別れが、ユーモラスに潔く綴られた名エッセイ『猫だましい』(ハルノ宵子さん著)。大変な日々の中でも、不安や心配に押しつぶされない強さはどこから? “今ここ”を生きる猫たちが全身で教えてくれる大切なことを、この「猫の日」に。

*   *   *

前回から1ヶ月、大腿骨を骨折したカツオは、ちょっと引きずってはいるものの、元気に走り回っている。痛みはすっかり取れたようだ。骨折をしたという自覚がない訳だから、人間のように、自分をいたわるなんてこともなく、思いっ切りドタドタと駆けては、時々(カクッと力が抜けるのか)ズベッとコケる。「あれ? 何でだろ」と、不思議そうな顔をするので、おかしい。人間だったら、こんなことして、骨がくっつかなかったら困る。また折れちゃったら、どうしようと慎重になり、自ら行動を制限してしまうことだろう。

動物は今がすべてだ。今できること、今やりたいことだけで生きている。先の心配なんてしない。まして自分の死なんてものは、頭にない──というか、そもそも生涯に組み込まれていない。

昨今の“おじさん雑誌”は、がんの名医がいる病院トップ50だの、突然死のリスクを下げるだの、薬と健康食品の危険な組み合わせ、食べてはイケナイ食品添加物一覧まで、どんだけ臆病なんだ! とあきれ果てる。

さらに良い老人ホームの見分け方だの、死んだらすぐ必要な手続き、相続でもめないために、墓選び墓仕舞い、とうとう、この病気で死ぬのはこんなに苦しい(オイオイ! 誰か死んでみたのか?)、ついには死後の世界はあるのか、までいっちゃったよ! いったい何雑誌を読んでたのか、思わず表紙を見返してしまった(「死ぬまでセックス」は、いずこに?)。

余談だが、“おばさん雑誌”の方は、いくつになっても美容と健康とファッション、そして老後を1人で生きる覚悟とか、年金だけでも豊かに暮らす──なんてことが主流だ。結婚しててもしなくても(死別か離婚か知らないけど)、最後は自分1人で生きる気満々だ。少なくともその想定でいるようだ。

確かに60代70代になると、“死”というものが、リアルな射程として見えてくる。私だって、人生あと20年ってとこかぁ~(ほーら、またがんを考慮に入れてない)。今から20年前ったら、父の眼と脚が急に悪くなってきて、京都での講演に車椅子で連れてった頃だな……20年なんて、あっという間じゃないか。なーんて考えることはある。おじさんたちの心細さは、分からないでもないが、それだったらなおさら、死亡リスクにクヨクヨしたり、終活だの死後の世界に、心を砕いている場合じゃないだろう。

うちの父は、「死は自分に属さない」と言っていた。養老孟司さんも、同じようなことを言っている。自分が死んだって、別に自分は困らない訳だ。困ったり悲しんだりするのは、せいぜい家族と親しい友人だけだ。私なんて底意地が悪いものだから、うっかり死んじゃったら「ざまーみろ」と思う(思う自分もいないんだし)。残された者が困らないようにと、終活にいそしむ人は、よほどいい人、りっぱな人に見られたいのだろう。イヤ、私などには理解が及ばぬ程、崇高な心をお持ちなのだろう……(たぶん)。私だって、死んだ後で見られたくない、あの恥ずかしい下絵(エロイやつね)だけは、始末しとかなきゃな。なんて思うが、きっと忘れて見られるのだ。でもそんなものも、死んでる自分は、恥ずかしいと感じない訳だし、それを描いたという事実は事実なんだし、すべてをひっくるめて、自分なんだから仕方ない(と開き直る)。文豪の方々の、金の無心の手紙とか、太宰治の“芥川賞ください手紙”なんて、恥ずかしいよな~気の毒に──と、こっちの方が赤面するが、その私は彼等にとっては、決して会うことのない、未来の世代の、赤の他人でしかない。

うちの父も母も“死に逃げ”だった。現在のおじさんたちが、終活や死後の心配をしている、60~70代、父は最もバリバリと仕事をしていた。母などは、70歳から俳句を始めた(2冊の句集を残している)。

父は死ぬ予定で緊急入院した訳ではなかった。肺炎なのだから(このトシでキビシイな~とは思ったが)、治って帰る可能性だってあったのだ。まだ続きのある仕事も、かかえていた。最後となってしまったインタビュー本の『フランシス子へ』などは、超老齢期の思考という、新たな境地が見られるかも──という、可能性すら感じさせた。ライターと編集の女性たちとは「では、この続きは年明けに。よいお年を~」と、別れた。父は死ぬまで思索し、仕事を続けた途上の死だったのだ。父らしいとは思う。完結して終わる人じゃない。

母はワガママな人だった。身内にキビシク、外面は良かった。どちらも紛れもなく本人だ。イヤなものはイヤで、ダメなものはダメ。家族は、あきらめたり逃走したり、鍛錬させられた。戦時中の修羅場と病を生き抜き、あのめんどくさい父の妻であることに伴う苦労はあっただろうが、それをさっ引いても、ワガママだと思う。しかし、父をも屈服させる鋭い勘と強権は、ある局面では(ほぼ対外的にだが)常識も諦念も打ち砕き、それによって救われた人だって、何人か知っている。

父とはよく、「私が死ぬ時は、よけいなことしないでちょうだい。尊厳死協会に入る」「バカ言うな。死だけはな、自分の思い通りにならねえんだ」と、やり合っていたが、母は(結果的に)その望みを叶えた。

朝(私と同じく昼だけど)、いつも通り母の部屋の雨戸を開けて起こし、私が朝昼兼の食事の用意をしている間の死だった。「ゆうべは、あまりよく眠れなかったのよ」「じゃあ、お昼食べたらまた寝れば」が、最後に交わした会話だった。階下のキッチンに行く私と入れ替わりに、ヘルパーさんが上がって行った。4枚切りのぶ厚いトーストに、マーマレードを塗ったのと、Eリキッドに紅茶を入れたのが定番だった。帰りぎわヘルパーさんが、「奥様今日はよくお休みですね。でも便はたくさん出してらっしゃいました」と言ったのが、ちょっと引っかかった。お昼のお盆を持って、母の部屋に行った。母はよく眠っていた。「さぁ、ひと口でいいから食べちゃお。また寝ればいいから」と、トーストを口元に持っていったが、反応がない。「オイオイ」と、ほほをペチペチしてみたが、反応がない。首筋の脈を探してみたが……ナイ?

母にはよくダマされていたので、手鏡を口元に持っていく。1度部屋を出てまた覗く。ふと、ぬれタオルを顔にのせてみようか──と、頭をよぎったが、それをやってたら、確実に事件になっていただろう。「どうも死んでるみたいなんですけど」というマヌケな電話を(つい1ヶ月程前に契約したばかりの)訪問医にかけた。訪問医は「救急車を呼びますか? 死亡確認に行きますか?」と尋ねてきた。そりゃあもう、これは全人類垂すい涎ぜんの死に方だ。これを心臓マッサージなんかで起こしたら呪われる。「死亡確認でけっこうです」と、答えた。テーブルの向かいの椅子に腰をかけた。10月の穏やかに晴れた日だった。「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩が、思い浮かんだ。少し開けた窓からは、心地よい風が入って来る。部屋にはトーストのにおいが、ただよっている。出すもん出して、ヘルパーさんに、お尻までキレイにしてもらって、何の心配もない。平和な顔して……ワガママ放題生きて、セルフ尊厳死とは、おみごと! こりゃあ勝ち逃げだよ。母は自分の生き様を完遂したのだ。

先日(再放送だと思うが)、とある山小屋のご主人のドキュメンタリー番組を観た。山を愛し、山のきびしさ美しさを知りつくし、レスキューにまで手を貸していた、山のエキスパートだ。私のような根性ナシは、寒がりだし人工股関節だし、息は上がるし、山には憧れるが、もう一生登ることはないだろう(誰かヘリで連れてってくれるならいいけど)。おそらくその方は、登山家にとってはレジェンドなのだろうが、私は何の予備知識もなく番組に没頭していたら、そのご主人は海でカヌーの練習中に、事故死してしまったという。えっ海……よりによって海? 病気とかでもなく海? ──と、しばしボーゼンと、海で死んだ意味を考えてしまった。(失礼ながら)山で死んだらカッコよかったのにと、勝手なことを思った。きっと家族や親しい友人たちも、「何で?」と、意味を考えたことだろう。ずっと考え続けるのだろう。でも答えは出ない。近しい人は、それなりに答えを見出したのかもしれないが、それだって後づけだ。死に意味なんてない。その人なりの生き様を全うしたから、周囲は(勝手に)、死の意味づけを考えるだけだ。

私なんて「がんだがんだ」と、ネタにしてるが、ある日家で椅子を踏みはずし、頭ぶつけて死んだりして(ホントにやりそうでコワイ)、周囲の人から、マヌケだねぇ。いつかやると思った。らしい最期だねぇ。とか言われそうだが、死んでるから知ったこっちゃない。勝手に意味づけしてくれ。

犬も猫も野生動物も虫も、そして幼くして死んだ子供も、不純物はなくただ生きる・生命として地上にあること──を全うするのだから、皆尊い。それを失った者が、生まれて死んだ意味を見出そうと、一生懸命考える。短い生は、そこに立ち上がる。

あの相模原の、障害者施設殺傷事件の犯人などには、「キミは、生まれてただそこに存在することの気高さ、美しさを知らずに終わるんだね。哀れなヤツだね~」と、言ってやりたいところだが、意外に今の世の中、そういうヤツが大多数──とまでは言わないまでも、けっこうな割合を占めていることに気付いて、ゲンナリする。

まぁ、そういうヤツの死は、それなりの意味しか持たないんだから、けっこうですけどさ。

なーんてことを足元で、ジャマくさく腹を出して寝ているカツオを見ながら、思うのである。

 

 

ハルノ宵子『猫だましい』

吉本隆明の長女であり、漫画家・エッセイスト・愛猫家である著者が、自身の闘病、両親の介護と看取り、数多の猫たちとの出会いと看病・別れを等価に自由に綴る、孤高で野蛮な、揺るぎないエッセイ。

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