ネコの気ままさ、孤高さは、どこからくるのでしょう? そのヒントともいえる考察を、町田康さんが、ヨシヤスさんのコミックエッセイ『黒猫モンロヲ モフモフなやつ』の文庫解説としてご寄稿されていました。ネコはおのれの自由さなど、きっと頓着してないだろうけれど、人間の私たちは、つい「なぜ?」と探りたくなってしまうのですよね。
ネコの旅には行き先もない
道に立っていたら向こうから歩いてきた人が突然、殴りかかってきて、数発殴った後、「ひどい目にあったー」と叫びながら少し離れたところまで行き、乱れた衣服や髪を整え、それから何事もなかったかのように去って行った。或いは。
レストランに入ったら先客が既に食事をしていた。私はその人の顔や肘を頭でグイグイ押した。その人は嫌な気持ちになって席を立った。そこで私は席に座ってその料理を食べた。或いは。
ホテルのロビーに大きな壺が置いてあり花が活けてあった。向こうから来た人がそれを押し倒した。壺が割れ、あたりは水浸しになった。従業員が飛んできてなにか言うのを無視して、その人はラウンジの方に行き、置いてあったピアノのうえに飛び乗って足踏みを始めた。見ているうちに自分もやりたくなったので行って足踏みした。
なんて文章を読んだら人は、「なんでだー」と思うに違いない。なぜならそんなことをするにはそれ相応の理由があるに違いないと信じるからで、理由もなしに知らない人に殴りかかることはないだろうし、理由もなしに人の食事を奪うことはないだろうし、理由もなしに高価な花瓶をわざと割るようなことはしないと誰もが思っている。
けれども、芥川龍之介が「藪の中」に書いたように真実は誰にもわからず、そうと認定された事実らしきものだけだし、新聞を読んでも、「ムシャクシャしてやった」「飯がほしい気持ちを抑えきれなかった」「ホテルを恨んでいた。ホテルならどこでもよかった」なんておなじみの文字が並ぶばかりで、多くの場合、それも判然とせず、人々の中にモヤモヤしたものが残る。
そこで登場するのが、そう、小説家である。小説家は物語を拵(こしら)えてこの「なぜ?」に対する答えを用意する。なぜ男は殴ったのか。なぜ彼は殴られなければならなかったのか。八年前、スルメ山公園の売店でなにがあったのか。そして男の母の初恋の相手こそが……。衝撃の事実が明らかになる。現場に落ちていた『リルケ詩集』。そしてその傍らにそっと置かれた冷凍餃子。ツンドラ地帯買収をめぐるどす黒い疑惑。といったようなことを組み合わせて問いに対する答えを明らかにする。
このことから知れるように、人間が起きたことに対して、なぜ? という気持ちを抑えきれない限り物語は作られ続ける。そしてその、なぜ? という思いは自分に近ければ近いほど切実なものとなる。愛する人が自分から去って行ったとき、なんで? と思う。莫大な税金を払うときも、なんで? と思う。或いは、地震や大水で家や田畑を失ったときも、思わず叫ぶ。そして、他ならぬ自分が死を悟ったときもおそらく、なぜだー、死ぬとわかってなぜ生きるのだー、と叫ぶだろう。
蓋(けだ)し文学とは、そして宗教とは、それに対するとりあえずの、当面の、それらしい答えを用意することであった。けれどもそれは言うように当面の答えに過ぎず、一瞬は、そうかー、と深く頷いたところでじきに、でもなんで? と思ってしまう。なので物語は作られ続け、ときに物語と物語が齟齬(そご)をきたして争いになる。ところが。
この物語から完全に免れているものが私たちの身近にいる。身近にいて腹の上に乗ってきて腹部を圧迫したり、マットレスの表面を切り裂いて中の詰め物を撒き散らしたり、キーボードを爪で引っ掛けて除去することによって作家の文章力を極端に低下させるなどしている。というのはそう、猫である。
冒頭で書いたことはすべて猫がすることで、しかしそう断らずに書いたから人は、なぜだ、と思った。しかしこれを猫だと最初から断っていたらどうだっただろうか。おそらく誰も、少なくとも猫を飼っている人なら相好を崩して、サモアリナン、と納得、理由など問わないだろう。
ということは猫を中心として物語を紡ぐということは、なぜ? という問いなしに物語を紡ぐということで、でも右に説明した通り、物語を紡ぐためには、なぜ? が不可欠で、ということは、猫をめぐった物語を紡ぐのは不可能ということになる。ところが。
この『黒猫モンロヲ』はその不可能を可能にした。ここで描かれるのは、どこまでいっても、なぜ? のない世界である。
それは物語の常識から考えれば読者にモヤモヤしたものを残すはずである。ところが私はこれを、「そうだ、その通りだ」「間違いない」「まったくその通りだ。私も以前からそう思っていた。思っていて言葉で表現できないでいた。よくぞこれを表してくれた」と、いちいち頷きながら読んでいた。そうかあっ、と、手を打ち、膝も叩いた。頷きすぎて頸椎(けいつい)を捻挫した。打ちすぎて手の皮が破れて血が流れ、叩きすぎて膝が完全に砕けた。というのはまあ噓だが、それくらい共感を覚えたのは事実である。
本書に猫たちがみんなで一人旅をする場面がある。というと私たちはすぐ、みんなで一人旅? なぜだ? と思うが、その問いからも自由な猫たちはみんなで一人旅をしている。それについての猫は抱腹絶倒の見解を私たちに示してくれるが、そこから、「猫にとってカバンとはなにか」という問いが提出され、猫たちが討議する。
そのとき、キジシローという帽子をかぶった猫がギターを弾きつつ歌った歌に、私は圧倒的なフリーダム、ということを知り、心の底から湧き上がるような感動を覚えた。
なぜ? に縛られない猫の自由をできれば手にしたい。けれどもできないのが人間の因果。だから私は今日も、この、なにからも自由なモンロヲの物語を読む。その間だけは私たちも自由。ありがたいことだ。