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2021.03.27 更新 ツイート

胎教を超えた知識を持つ胎児 はたして、人生の始まりは――『憂鬱な10か月』イアン・マキューアン  KIKI

「というわけで、わたしはここにいる、逆さまになって、ある女のなかにいる。」

ギョッとするような書き出しで本書は始まる。けれど、このひと文で、一気に物語に引き込まれてもいく。主人公は、トゥルーディという女性のお腹のなかにいる「胎児」。臨月を迎えている。トゥルーディの髪は“麦わら色の金髪”で、 “リンゴの果肉みたいに真っ白な肩”まで垂れている。そして、目は緑色で、鼻は“真珠のボタン”みたいである。若さに似合ったチャーミングな女性のようだ。胎児になぜそのようなことまでわかるかというと、トゥルーディの夫が詠む詩や、周囲の人が発する言葉によって、母のイメージを作りあげているからである。

 

実際に見たわけではないので、すべてが想像である。母だけでなく、彼女の周りに現れる他の登場人物についても同様に。妻のことを詩で詠うだけあって、夫は詩人という言葉の魔術師。ふたりが出会ったころは、その言葉の巧みさにロマンチックな時間を過ごすが、時が経つにつれて、稼げない職業であること、また過剰な言葉を煩わしく感じ、妻は夫が疎ましくなっていく。今、そんな彼女の一番近くにいるのは、なんということか、夫の弟である。

胎児の彼は、なぜ母が父の弟を選ぶのか、納得がいっていない。いけ好かない性格を母の皮膚を通じて感じており、反対に父の持つロマンチシズムやその不器用さが好みで、どうにか夫婦仲が戻らないかと案じている。すべては、母の腹から出た後の自分の境遇を思ってのこと。しかし、“外”の世界の出来事は思うように進まず、なにやら一大事が起きようとしている。

「憂鬱な10か月」とタイトルにあるけれど、輝かしい時期もあった。「あの懐かしい、半透明な遺体袋のなかに漂っていたころのことが脳裏を過る。──あれはまだ気楽な初期のころだった」と自由を懐古するあたり、長い人生を過ごしてきたような言い草で興味深い。

胎児の彼の知能は、妙に進んでいる。それは、母が好んで頻繁に聞くラジオのおかげであるが、あまりに思考がめぐるので、外で起きている状況を嘆き、いっそ生まれない方が良いのではないかと、そんなことまで考えてしまう。胎教という言葉があるけれど、彼ほど進んだ知識を持ってしまうと、はたして、どういった人生の始まりを迎えるのだろう。

ちなみに私事だが、今、妊娠六か月である。このタイミングで本書に出合うとは、奇妙なめぐり合わせを感じる。わたしの胎児もこんな難しいことを考えているのだろうか。「もう何週間も前に、わたしの神経溝が閉じて脊椎を形成し、何百万もの若い神経細胞が蚕みたいに忙しく働いて、ひらひらする軸索を紡ぎ、わたしの最初の観念というきらびやかな黄金色の布を織り出したのだ──」。近ごろ、夫婦の言動に気を遣うようになったのは、確かである。

「小説幻冬」2018年9月号

イアン・マキューアン 村松潔訳『憂鬱な10か月』(新潮社)

母のお腹の中にいる〈胎児〉である「わたし」が生まれようとしている世界は、犯罪の気配がただよっており……。運命に抗おうとする胎児によって語られる奇想天外な『ハムレット』。

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KIKI モデル

東京都出身。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒。山好きとして知られ、著書に美しい山を旅して』(平凡社)などがある。(photo: ohta yoko)

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