
いまではそんなことはなくなったが、一時期街を歩きマンションやビルが見えると、つい屋上のほうを見上げてしまう癖があった。人からは不思議がられたが、わたしはそこに給水タンクの姿を探していたのだ。
学生時代の最後の年、卒業まではまだ時間があったので、暇な日は下落合にある内外学生センター(「ガクト」と呼ばれていた)まで行って日雇いのアルバイトを探した。そこに張り出されている仕事の多くはビルの解体や引っ越しの補助など肉体労働だったが、たまに変わったアルバイトもあって、給水タンクの掃除はそこで見つけた。マンションなどの屋上に設置されている給水タンクの水を抜き(完全に抜け切るまで時間がかかる)、中に潜りこみブラシでくまなく掃除をして、終わったらまた水を溜める。この世にそんな仕事が存在すると思わなかったが需要はあるようで、仕事のある日は午前中にひとつ、午後にひとつ、タンクの内部を洗った。仕事が終了したら時間に関わらずそこで終わりという気楽さもよく、何回か続けたらガクトを通さず直接会社から連絡がくるようになった。
その会社は吉祥寺にあったので、仕事ではそこから南の京王線や小田急沿線の街に行くことが多く、それらの住宅地はわたしが当時住んでいた街よりもずいぶん明るく見えた。タンクの蓋を開け外に出たあとの空は広く、知らない街の、家々の屋根がどこまでも広がっている景色を眺めることは気分がよかった。
ある日いつものようにタンクの中を掃除して、道具を担ぎ車に運ぼうとすると、非常階段に向かう入口の脇に人影があった。ふと視線をそちらにやると、中年の男女が一つになって、静かに抱き合っている姿があった。
うわぁ。
大声を出す気はなかったのだが、そんなところに人がいるとは思っていなくて、つい声が出てしまった。二人はそのまま身動きもせず、女性のしわのある手が男の大きな背中をしっかりとつかんでいた。
すみません。あわてて非常階段を降り駐車場までいって、先に車のところにいた仕事の責任者(仮にKさんとしておく)に道具を渡した。Kさんはまだ若く社員ではなかったが仕事は任されているようで、時たま一緒になった。自分から何かを話すタイプの人ではなかったが仕事は丁寧で無駄がなく、わたしはこの人と組むことが好きだった。
そういえばさっき……。車に乗ってしばらくしてから、運転するKさんに先ほど見かけた男女の話をした。彼は黙って聞いていたが、そんな人は見なかったといった。
ふーん。でも誰かいたら気がつきそうなもんだけどな。屋上ではたまに人と会うけどあれにはいつも驚くな。
それから彼は自分が見たという、邪魔だからとどれだけいっても決して給水タンクのそばを離れようとしないおばあさんの話をした。「刑事ドラマなんかでよく犯人が屋上に追いつめられるだろ。タンクの周りってなんかそういう場所なんだよな」。
わたしが見かけたと思った中年の男女もまた、何かから追いつめられていたのだろうか。いまとなっては知りようもないが、そのざらりとした切迫感は、いまでもすぐに思い出される。
インターネットで調べると、水質や維持管理の問題から、いまでは給水タンクが新しく作られることはほとんどなく、かろうじて古いマンションにのみその姿をとどめているという。
今回のおすすめ本
世界各地への旅や気のおけない友人との交流からエレンは刺激を受け歩みつづける。凛とした文章と写真で記録された、インディペンデントファッション誌編集長の日々。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年7月18日(金)~ 2025年8月3日(日) Title2階ギャラリー
「花と動物の切り絵アルファベット」刊行記念 garden原画展
切り絵作家gardenの最新刊の切り絵原画展。この本は、切り絵を楽しむための作り方と切り絵図案を掲載した本で、花と動物のモチーフを用いて、5種類のアルファベットシリーズを制作しました。猫の着せ替えができる図案や額装用の繊細な図案を含めると、掲載図案は400点以上。本展では、gardenが制作したこれら400点の切り絵原画を展示・販売いたします(一部、非売品を含む)。愛らしい猫たちや動物たち、可憐な花をぜひご覧ください。
◯2025年8月15日(金)Title1階特設スペース 19時00分スタート
書物で世界をロマン化する――周縁の出版社〈共和国〉
『版元番外地 〈共和国〉樹立篇』(コトニ社)刊行記念 下平尾直トークイベント
2014年の創業後、どこかで見たことのある本とは一線を画し、骨太できばのある本をつくってきた出版社・共和国。その代表である下平尾直は何をよしとし、いったい何と闘っているのか。そして創業時に掲げた「書物で世界をロマン化する」という理念は、はたして果たされつつあるのか……。このイベントでは、そんな下平尾さんの編集姿勢や、会社を経営してみた雑感、いま思うことなどを、『版元番外地』を手掛かりとしながらざっくばらんにうかがいます。聞き手は来年十周年を迎え、荒廃した世界の中でまだ何とか立っている、Title店主・辻山良雄。この世界のセンパイに、色々聞いてみたいと思います。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】NEW!!
〈いま〉を〈いま〉のまま生きる /〈わたし〉になるための読書(6)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は〈いま〉をキーワードにした2冊。〈意志〉の不確実性や〈利他〉の成り立ちに分け入る本、そして〈ケア〉についての概念を揺るがす挑戦的かつ寛容な本をご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。