
子どものころは、毎年正月がくるのが憂鬱だった。学校という社会を離れ、普段は向き合うことを恐れていた家族と、四六時中一緒の時間を過ごさなければならなかったからだ。両親と兄とわたしの四人家族は仲が悪いというほどではなかったが、わたしが子どものころは父が外でひそかに借金をしており(「ひそかに」という割に、家族のものはみんなそのことを知っていた)、それもあってか父は家のなかではお酒を飲みすぎ、家の空気はいつも悪かった。
元日には父が家族に対して、お屠蘇を一杯ずつふるまうのだが、普段尊敬されているわけではなかった父が家長として座っている姿は空疎な感じがして、毎年早く過ぎてほしい時間だった。お屠蘇はそのうち日本酒に変わり、食事がすんだあとも、父は一人で飲み続けていた。
酔うと最後にはかならず機嫌が悪くなり、声が次第に大きくなる。よしお――っ。階下から聞こえてくる声には耳をふさぎ、なんでこんな家に生まれてきたのかと、いますぐどこかに飛び出したい気持ちになった。
父の作った借金は、阪神淡路大震災という未曽有の災害をきっかけとして、思わぬかたちで解消された。そのころ兄とわたしはすでに家から出ていたので、両親はそれまで住んでいた家を売り払い、同じ神戸市内でも下町の小さな家に引っ越しをした。その小さな家に引っ越してからは、父は人が変わったように穏やかになり、酒を飲むと大きな声を出すかわりに、自分の内にこもるようになった。
ジャンプはまだ読んでるんか。酒で肝臓を悪くし、入院することになった父を見舞いに行ったとき、父は言った。「ジャンプ」とは『週刊少年ジャンプ』のことで、わたしの子どものころは電車で漫画雑誌を読む人がまだ多かったから、毎週月曜の帰宅時には、電車の網棚に誰かが置いていったジャンプを、父が持って帰ってきたのだ。
もう大学を卒業しようという年になっていたわたしは「読んでない」とそっけなく言った。なぜ、久しぶりに会ってジャンプの話をするのか、まったくわからなかった。そのまま黙っていると父は続けて「あのジャンプな、実は毎号ワシが買っててん」と言った。
ああ、そうなんや……とわたしは言ったが、父が買って帰っていたことは勘づいていた(そうそう毎週網棚から見つけられるものではない)。「これ、捨てられてたんや」最初に父がジャンプを持って帰ってきたとき、二人してうれしい顔をしたのだろう。「捨てられていたジャンプを、子どものために持って帰ること」は、それから父が自分に課した、物語のようなものだったと思う。
もうおわかりかと思うが、父は自分の子どもにさえ不器用な人だった。いま思えば、お屠蘇を飲んで酔っ払わなければ、その場にいることすらできなかったのかもしれない。お正月が苦しかったのは、何もわたしだけではなかったということだ。
そういえばジャンプの話をしたときも、わたしのほうは見ず、病院の窓から見える山のほうに向かってずっと話し続けていた。
今回のおすすめ本
親との葛藤、カードローン、性暴力……。自らに起きた笑えない出来事も、率直に、ツッコミを交えて書く。その明るい強さは、多くの秘められた「困りごと」を引き出した。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年7月18日(金)~ 2025年8月3日(日) Title2階ギャラリー
「花と動物の切り絵アルファベット」刊行記念 garden原画展
切り絵作家gardenの最新刊の切り絵原画展。この本は、切り絵を楽しむための作り方と切り絵図案を掲載した本で、花と動物のモチーフを用いて、5種類のアルファベットシリーズを制作しました。猫の着せ替えができる図案や額装用の繊細な図案を含めると、掲載図案は400点以上。本展では、gardenが制作したこれら400点の切り絵原画を展示・販売いたします(一部、非売品を含む)。愛らしい猫たちや動物たち、可憐な花をぜひご覧ください。
◯2025年8月15日(金)Title1階特設スペース 19時00分スタート
書物で世界をロマン化する――周縁の出版社〈共和国〉
『版元番外地 〈共和国〉樹立篇』(コトニ社)刊行記念 下平尾直トークイベント
2014年の創業後、どこかで見たことのある本とは一線を画し、骨太できばのある本をつくってきた出版社・共和国。その代表である下平尾直は何をよしとし、いったい何と闘っているのか。そして創業時に掲げた「書物で世界をロマン化する」という理念は、はたして果たされつつあるのか……。このイベントでは、そんな下平尾さんの編集姿勢や、会社を経営してみた雑感、いま思うことなどを、『版元番外地』を手掛かりとしながらざっくばらんにうかがいます。聞き手は来年十周年を迎え、荒廃した世界の中でまだ何とか立っている、Title店主・辻山良雄。この世界のセンパイに、色々聞いてみたいと思います。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】NEW!!
〈いま〉を〈いま〉のまま生きる /〈わたし〉になるための読書(6)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は〈いま〉をキーワードにした2冊。〈意志〉の不確実性や〈利他〉の成り立ちに分け入る本、そして〈ケア〉についての概念を揺るがす挑戦的かつ寛容な本をご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。