むかし毎週のように通った喫茶店のマスターは、無口な人だった(4年間で2回しか、まともに話した記憶がない)。堅苦しさはないが入るときに少しの緊張が必要な店で、白が基調の店内では、無駄なものを目にすることはなかった。特に会話が禁止ということではなかったが、話している人を見かけることはあまりなく、ほとんどの客は一人でコーヒーを飲んでいた。
ある日店に入ると、珍しく大声で話している若者のグループがいて、彼らは店内でとても目立っていた。そのときは声の大きさが気になって、持ってきた本を読むことができなかったが、いつのまにかマスターがそっとグループのテーブルに近づき、一言二言何かを話しかけたようだった(小さな声なので、ほかのテーブルには何も聞こえない)。しばらくすると彼らは立ちあがり、そっと店を出ていった。
うかつな話だが、本屋もひとつの〈場〉であると、店を開いてから気がつくようになった。本というモノを売り買いしていることには違いないのだが、お客さんはその時の店の居心地や、本が素敵に見える雰囲気までをふくめ、本と一緒に買ってくれているように思う。
その無言で行われるやり取りを壊さないために、本屋は商品や客に対し、見ていないような態度を取りながらも、目の端では店で起こることを見ていなければならない。客の目にはいつもと同じように見える光景でも、それは多くの要素のうえに成り立つ繊細なものである。それがすべて円滑に回っているからこそ、来る人は安心して心を開くことができ、店にある本は輝きを放っていく。
喫茶店のマスターがあのとき何といったかはわからないが、客に恥をかかせない程度にそっとたしなめたのだろう。いつもの何気ない姿で立ちながら、あのときマスターは〈場〉を取り仕切っていたのだと、いまでも時々思い返すことがある。
今回のおすすめ本
永井宏は「どんな人にも表現はできる」と、多くの人の背中を押しその気にさせた。自分の心を覗き込み、不器用に見えても自らの手で何かを作ってみることが、人が何世代にもわたり営んできた〈生活〉へとつながっていく。永井のギャラリーやワークショップは、そこから多くの表現者が育った〈場〉でもあった。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
○2024年9月20日(金)~ 2024年9月30日(月)Title2階ギャラリー
「なぜ自分の家族の作品を作るのか?」写真家木村肇の写真とインタビューで、作品制作の背景をたどった書籍「嘘の家族」の刊行を記念して、写真展を開催します。早くに亡くなった両親の存在を隠し続けてきた作家が、実家の部屋をギャラリースペースに再現し、嘘か本当か、曖昧な家族の記憶を行き来するような作品を展示します。
◯【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】NEW!!
『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)
『うたたねの地図 百年の夏休み』岡野大嗣(実業之日本社)ーー〈そのもの〉として描かれた景色が、普遍の時間へと回帰していく瞬間 [評]辻山良雄
(Webジェイ・ノベル 掲載)
◯【お知らせ】
我に返る /〈わたし〉になるための読書(2)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第2回が更新されました。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。