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「アイネクライネナハトムジーク」絶賛上映中

2019.10.05 更新 ツイート

#5 ヘビー級タイトルマッチ…“出会いがない”の呪縛がとける恋愛ストーリー伊坂幸太郎

記入してもらった用紙を鞄(かばん)の中にしまい、よし、と僕は思った。こうやって、少しずつ成果を上げていけばどうにかなるのではないか、と自信を得た。もしかすると、今の彼女が呼び水となり、これから事態は好転するのではないか、と安直なことまで考えたのだが、これが驚くことに、実際、そうなった。

前を背広姿の男性が通りかかり、「アンケートに協力していただけますか」と声をかけると、「お、いいよ」と彼は立ち止まった。「暇なんだよ」

それが終わるとちょうど良いタイミングで女性二人がやってきて、これも依頼を快く受けてくれる。

その後も、全戦全勝とまではいかなかったが、それなりの好調さをもって、僕は仕事をこなしていき、気づけばずいぶんと時間が過ぎていた。

ボクシングはどうなったのだろう、と思う余裕さえ生まれた。

駅構内に目をやる。ずいぶんと人が増え、彼らがいちように興奮しているのが見て取れた。良い試合なのかもしれない。

僕は、回答をもらったアンケート用紙の束に触れ、それなりの成果に満足したからというわけでもないが、このあたりで一休みしても良いだろうと入り口をくぐり、駅の中に足を踏み入れた。

画面では、トランクス姿の選手二人が打ち合っていた。

(写真:iStock.com/NiseriN)

構内出入り口の脇に背をつけ、その試合を眺める。

赤のグラブの外国人チャンピオンが右の拳(こぶし)を振り、青のグラブの日本人挑戦者がそれをのけぞるように躱(かわ)す。世界ヘビー級タイトルマッチだけあり、二人ともとても体格が良かったし、さらには映し出す画面自体も大きかったので、飛び散る汗がこちらにかかるような錯覚を受けるほど、臨場感がある。

赤の左グラブが下から鋭くえぐるように飛び出し、青のグラブがそれを腕で受けた。それも束(つか)の間(ま)、すぐに青の左グラブが、チャンピオンの顔を狙う。チャンピオンは頭を低くして、避(よ)ける。打ち返す。避ける。打ち返す。ガードが弾(はじ)く。打つ。打つ。汗が飛沫(しぶき)となって、飛ぶ。

体格には不釣合いなほどの、スピード感溢(あふ)れる動きに、見入ってしまう。

画面を見上げる人々の背中も緊張で強張(こわば)っていた。誰もが我を忘れ、瞬(まばた)きすら恐れ、試合を見つめている。国内のあちこちでさまざまな人が、この試合をいろいろな思いで観戦しているのかと考えると壮大なドラマに参加している気分にもなった。この試合の結果により、仕事に影響を受ける人もいるだろうし、もしかすると、プロポーズに踏み切る勇気を得よう、と期待している他力本願の人もいるかもしれない。

ボクサーの動きに釣られるかのように、自らの身体を左右に揺すっている者が何人かいる。

先ほどの彼女が見えた。僕の仕事を好転させるきっかけとなってくれた、ブランドバッグを持った、シャンプーを買う予定の、彼女だ。

人の集まっているちょうど左端あたりで、首を傾け、立っていた。先ほどからずいぶんと時間が経(た)っていたから、あそこで観はじめたら、立ち去ることができなくなったのかもしれない。

彼女の両手が、ぎゅっと拳を作っている。ずいぶん距離が離れているのに、僕にはそれが分かった。その拳を無意識に揺すっている。横顔が少しだけ見える。

ラウンドの終わる直前、チャンピオンがリングに倒れた。青の選手のストレートが、顎(あご)に入ったのだ。駅構内に歓声が沸き、それはほとんどうねりをつくるどよめきだったのだが、大半の人間が万歳をした。

視線の先の彼女も一瞬、右腕を上げかけたが、その拳に自ら気づき、照れるような顔になるとそのまま、左方向へと消えた。

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伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』

妻に出て行かれたサラリーマン、声しか知らない相手に恋する美容師、元いじめっ子と再会してしまったOL……。人生は、いつも楽しいことばかりじゃない。でも、運転免許センターで、リビングで、駐輪場で、奇跡は起こる。情けなくも愛おしい登場人物たちが仕掛ける、不器用な駆け引きの数々。明日がきっと楽しくなる、魔法のような連作短編集。

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伊坂幸太郎

一九七一年千葉県生まれ。二〇〇〇年『オーデュボンの祈り』で、第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。〇四年『アヒルと鴨のコインロッカー』で第二十五回吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で第五十七回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。〇八年『ゴールデンスランバー』で第五回本屋大賞と第二十一回山本周五郎賞を受賞する。他の著書に『火星に住むつもりかい?』『AX アックス』などがある。

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