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世にも美しき数学者たちの日常

2019.04.14 公開 ツイート

研究室の本棚は、数学書よりもビールが占めていた!天才数学者の不思議な生態。 二宮敦人

凡人には手の届かない頭脳を持った、美しき天才たちの日常を知りたい――! 

その思いで、小説家・二宮敦人氏が、担当編集者とともに数学者のもとへ訪れ、謎多き彼らのヴェールを一枚ずつ剥がしていくノンフィクション『世にも美しき数学者たちの日常』

本書に登場している、数学者・千葉逸人(ちば・はやと)先生。

4月16日夜に代官山蔦屋書店で対談をするのですが、千葉先生と二宮さんの出会いというのが、やっぱりちょっと普通じゃありませんでした! 

*   *   *

(写真:iStock.com/Adam Calaitzis)

芸術に近いかもしれない――千葉逸人先生(取材当時・九州大学准教授。現・東北大学教授)

僕たちは九州大学にやってきている。

「単位を落として留年が確定した方へ。いかなる温情措置、追加措置も行っておりません。この部屋をノックすると爆発します。

研究室のドアにこんな張り紙をしてしまうのが、千葉逸人先生である。ぐりんとした目力のある瞳にへの字の口、細身の体にTシャツとジーンズをまとった千葉先生は、現役の大学生と言っても通用しそうな若々しい外見だ。

「堅苦しいのはちょっと苦手で。そういう性格なんです」

だが、彼の暴挙はそれだけではない。

提出期限が過ぎればレポート提出BOXをビール提出BOXにしてしまい、以後はビールの提出しか受け付けないとのたまったり、「GW明けの月曜一限とかありえないため」授業を休講したり、やりたい放題。堅苦しいのが苦手としても、ほどがあるのではないか。

「本棚のほとんどが、ビール瓶(びん)じゃないですか!」

僕は研究室の中を見回して言った。数学関連の書籍もあるが、全体の半分未満である。

千葉先生は特にまずいものを見られたという様子もなく、ゆっくりと立ち上がると棚のガラス扉を開いた。

「ビール瓶のコレクションです。ラベルが好きなやつ、海外のレアもので二度と手に入らないようなやつなんかを飾ってます。たとえばこれはスコットランドのビールで、醸造後にウイスキーの樽で寝かせたものなんですよ。30って書いてあるでしょ。三十年物のウイスキーの樽を使っていて、スモーキーさやアロマ感がビールに移るわけ。こっちはシェリーカスクって言って、シェリーの樽で寝かせていて……」

ただの酒好きの困った人にも思えてくるが、もちろんそれだけで大学の先生になることはできない。

「こちらは?」

「これは、文部科学大臣表彰をもらった時のトロフィーとメダル。これはなんかよくわからないけど、アジア数学者会議で講演の機会があったので、しゃべったらもらえた。うん」

きらきらと虹色に光るメダルや、銀色の円盤をいじりながらさらっと言ってのける。そう、千葉先生は三十五歳にして輝かしい業績を挙げている、若手数学者のホープなのである。

しかし文部科学大臣とアジアを、酒瓶と同列に並べてしまっていいのだろうか。

大学生向けの教科書を書く大学生

『これならわかる 工学部で学ぶ数学』という本がある。主に大学で学ぶ応用数学についてまとめられた教科書で、そのわかりやすさ、簡潔さから、なかなかの名著とされている。

「はい、僕が学部三回生の時に書いたんですけどね」

この著者こそが千葉先生。それも書いたのは大学生の時だという。

『ベクトル解析からの幾何学入門』という本がある。高校数学レベルから幾何学を学んでいくための本で、やはり評判は良く、この分野の入門書としてこれ以上の良書はないとまで言う人もいる。

「これは僕が学部四回生の時に書いた本ですね。出版されたのは院の一年目ですが」

先生になってから本を書くのはわかるが、学生のうちから書いてしまうというのはちょっと想像がつかない。

「まだ学ぶ側でありながら、人に教えられるくらいのところに達してしまったということですよね。やっぱり、昔から飲み込みが早かったんでしょうか」

難しい数学をバリバリ解く、大人顔負けの神童だった……そんな答えが返ってくると思いきや、千葉先生は首を横に振って否定した。

「いや、そうでもないです。昔から考えるのは好きだったけど、それくらいかな」

「どんなことを考えていたんですか。小学生の頃とか」

「まあ別に、何も。うんこのこととか」

「なるほど、うんこですか」

僕と大差なし、とノートにメモする。

「まあ勉強するのは好きでしたけど、普通の久留米の公立高校でしたし、別にクラスで一番でもないし。浪人もしてるし。高校まではほんと毎日つまらなかったな。自分の個性が何か、わからなくて。飛び抜けてできるものもなかったし、友達もそんなにいなかったし……」

「えっ、そうなんですか」

「大学で工学部に入ったのも、宇宙の図鑑とかを眺めるのが好きだったからで。宇宙関係の仕事ができたらいいなと思って、工学部の物理工学科というところに入ったんです。その頃は数学者という職業の存在を知りませんでした。というか、数学者という単語も知らなかった」

「じゃあ、どうしてこんな本が書けたんでしょうか」

「まあ、もちろん本を書くくらいだから僕はずば抜けてるんですけどね。自分で言うのもなんですけど。それはたぶん、才能というよりも圧倒的に人より勉強時間が長かったからです」

千葉先生は自分を褒める時も、けなす時も、嫌みがなく率直だ。だから当時は本当に誰よりも勉強したのだろうし、子供の頃は本当にうんこのことを考えていたのだろう。

「長いというと、どれくらい?」

「ずーっとしていました。勉強、楽しかったので。寝てる時も夢の中で数学していましたし、バイトやサークル活動中にも時間を見つけてはやってましたね。ほんとに、ずーっとです」

あまりにも長いこと椅子に座って勉強していたので、ジーンズのお尻がすり切れるほどだったそうだ。

千葉先生が在籍していたのは工学部だったが、数学専攻の授業を受けることもできた。そこで試しに学び始めてからというもの、どんどん数学の世界にのめり込んでいったのだという。

「もともと本を書くつもりなんて全くなくて、書いてたのはホームページだったんです。ちょうどインターネットが普及し始めた頃だったので、せっかくだから自分が勉強したことをまとめてアップしてみようというのがスタート。自己満足だったんですね。でもアップする以上は誰かに見られるわけなので、この方がわかりやすいんじゃないか、読みやすいんじゃないか、と構成は工夫していました」

「それは、自分も勉強しながらですよね」

「そう。だから自分も誰かの本を読みながら、書いていく。本を参考にはしますが、でも証明や例題、全体的な構成、説明の順番なんかは自分なりに作り直すわけです。これはすごく力になる」

今では学生に、似たようなことを推奨しているほどだそうだ。

「いろんな本を手当たり次第に読むのも、それはそれでいいこと。でもたとえば大学一年生の微分積分の教科書、定評のあるやつを全部自分で再構築してみろと。一年生で終える内容を四年かけてやってもいいから、何も見ないで自分でノートに再構築する。順番や道筋も本の通りである必要はなくて、自分なりに一番わかりやすい、美しいと思うやり方でいい」

「そういう勉強が本当の数学の勉強、なんでしょうか。どうも数学というと、解き方を覚えて使いこなせるようにしていく、というイメージがあるんですが」

「うーん、少なくとも証明や公式を暗記するとかってことはほとんどないですね。それらは自分で頭の中で作るものなんで」

人に教えられるようになって、初めて自分の血肉になるとも言う。千葉先生の理解力が優れていたから本が書けたのか、それとも本を書いたから深い理解を手にしたのか、どちらかわからなくなってくる。

「数学って、わかってしまうとめっちゃ簡単なんですよ。どんなに難しい定理でも、たとえばこんな分厚い本でも」

千葉先生は棚から辞書みたいなサイズの洋書を取り出した。

「全部読んで全部理解するには一年くらいかかると思うんだけど、僕の頭の中には非常にシンプルに入っていて。いつでも、何も見なくても、全部再構築できます。完全に理解してしまうとめちゃくちゃ簡単なんです」

本当に理解するとはそういうことなのかもしれない。数学に限らず、僕たちは普段どれくらい“何か”を理解しているだろうか。

(続く)

*   *   *

絶賛発売中!17万部のベストセラー『最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常』の著者・二宮敦人氏による、“知の迷宮を巡るノンフィクション”。
千葉先生と二宮さんの対談の詳細は代官山 T-SITEのお知らせをご覧ください。

関連書籍

二宮敦人『世にも美しき数学者たちの日常』

百年以上解かれていない難問に人生を捧げる。「写経」のかわりに「写数式」。エレガントな解答が好き。――それはあまりに甘美な世界! 類まれなる頭脳を持った“知の探究者”たちは、数学に対して、芸術家のごとく「美」を求め、時に哲学的、時にヘンテコな名言を繰り出す。深遠かつ未知なる領域に踏み入った、知的ロマン溢れるノンフィクション。

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世にも美しき数学者たちの日常

「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!

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二宮敦人 小説家・ノンフィクション作家

1985年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。2009年に『!』(アルファポリス)でデビュー。『正三角形は存在しない 霊能数学者・鳴神佐久のノート』『一番線に謎が到着します』(幻冬舎文庫)、『文藝モンスター』(河出文庫)、『裏世界旅行』(小学館)など著書多数。『最後の医者は桜を見上げて君を想う』ほか「最後の医者」シリーズが大ヒット。初めてのノンフィクション作品『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』がベストセラーになってから、『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ』など、ノンフィクションでも話題作を続出。

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