自分を追い込みすぎないための、まあいいか。
人の小さなミスを許すための、まあいいか。
そういう優しい「まあいいか」は人を救う。
でも一方で、使ってはいけない「まあいいか」もある。
誰かへの説明を後回しにすること。感謝を伝えないこと。人の時間や善意を軽く扱うこと。
本当は向き合わなければいけないことを、「まあいいか」で流してしまうと、その小さな雑さは、いつか誰かを傷つける。しかも厄介なのは、その瞬間には問題が見えにくいことだ。
大きな事故になるわけじゃない。表面上は、なんとなく進んでいく。だからこそ、雑に扱われた側だけが静かに疲れていく。
私が苦しくなるのは、周りの人たちの誠意や善意が、まるで最初からそこにあって当然のものみたいに扱われていることだった。
夜遅くまで作業をしてくれた人。急いで対応してくれた人。利益にはならないのに、力を貸してくれた人も。
そういう人たちのおかげでかたちになったものがある。 結局は、人の気持ちで全て出来ていた。
「仕方ない」で流していいものと、流してはいけないものがそこにはあった。人の時間。人の気持ち。「協力したい」と差し出してくれた善意も含めて。
そういうことまで「まあいいか」で片付けてしまったら、何のために一緒にやっているのか、分からなくなってしまう。
私は、誰かの好意を預かる時、すごく慎重になる。
協力してよかったと思って帰ってほしい。ちゃんと敬意を持って受け取りたい。そう思ってしまう。でも時々、その「見えない支え」に慣れすぎてしまう人もいる。
誰かが動いてくれることを当たり前だと思ってしまう。周りがフォローしてくれる前提で進めてしまう。もはやそこに気付けない人も居る。
表に見える成功や華やかさに意識が向きすぎると、その土台を支えている人たちの存在が、少しずつ見えなくなっていく。
説明がなくても、まあいいか。
共有しなくても、まあいいか。
その小さな「まあいいか」が積み重なるたびに、現場の空気は少しずつ歪んでいく。
その後ようやく分かったことがある。
同じ場所に立っていても、見えている景色は、人によって全然違うのだ。自分が思っていた役割と、相手が求めていた役割が違った。その認識がズレたままでは、どんなに足掻いても歯車は揃わない。
もうこれは、誰が悪いとかでもない。ただ、お互いの見ていた景色が違っていた。
そして結果的に、私は、協力してくれた仲間たちを守りきれなかったように感じてしまった。
悔しかった。悲しかった。何より、申し訳なかった。
私を信じて動いてくれた人たち。忙しい中、時間をつくってくれた人たち。その人たちを、私はちゃんと守れなかったように感じて自分に腹が立った。
「練習」という言葉には、完璧じゃなくてもいい、少しずつでいい、という意味が込められているそうだ。発売を控えた自分のエッセイのタイトルを、最近毎日自分に言い聞かせている。このタイトルは、長年この連載を見守ってきてくれた編集長の竹村さんがつけてくれた。
今までの私は、「ちゃんとやらなきゃ」が強すぎた。
まわりを守りたかったし、期待に応えたかったし、全部を背負える自分でいるのが当たり前だと思っていた。
でもきっと、自分を生きるというのは、全部を完璧にこなすことではない。
うまく出来なかった日も、守りきれなかった苦しさも、悔しかった気持ちも。全部をかかえて、ちゃんと進んでいくことなのかもしれない。
きっとこれも、自分を生きる練習なんだ。自分の大切を守る練習。
完璧じゃなくてもいい時もある。けれど、人への敬意だけは手放してはいけない。蔑ろにしてはいけない。例えばそんな扱いを受けそうになっても、私はせめて、自分の手の届く範囲で、仲間の思いや時間を大切に扱える人でいたい。
誰と一緒に何をつくるか以上に、どんな空気の中でつくるかや、当たり前に敬意があって成立している世界ということが私にとっては大切なのだと思う。
ちゃんと感謝を伝えられること。見えない働きを当たり前にしないこと。誰かの想いの上に、自分たちが立たせてもらっていることを忘れないこと。
そんなことを大事にしながら、場づくりをしていきたい。












