「暗い部屋にいた。壁は分厚く外にはそもそも光がないかのように思えた。上下と左右に振動することは止まないが、幸いなことに身体を傷つける可能性のある鋭角状のものは周りになさそうで、柔らかいシルク的な何やらに包まれながら、その振動の振れ幅と身体を共にしている。いくつかの段差を感じたあと静寂が訪れた。そのままの姿勢でいくつかの静止の経過を数えた。星も瞬きをしない静かな夜だった。自分の心臓の音だけが暗闇に浮かび上がり、しばらく見ていると黒い中にぼんやりとだがその輪郭を確認することができた。永い冬休みでつくため息は甘い味がした。土に混じる霜の断面に朝焼けが反射している。静寂の中でわたしの記憶たちがうごめくと、指先はかじかんでみせた。目を開けても閉じてもおおよそ黒色で、記憶だけが彩りを放ち、黒目は今その役割をちょうど忘れた頃だ。わたしの頭上が一気に割れて稲妻のような縦の光が視界を二つにした。発光に視界を奪われた後、じんわりと視力を取り戻していくと浮かび上がったのは男の姿で、垂れ下がる髪は長く、寝ているのか起きているのか、目は一様開いてはいるが、かろうじで何かを写してはいても、何かを見ていることはないだろうという力の具合が想像できた。男は深い呼吸をしたように思った。箱の中に夜露のように吐いていた甘い香りの束が一気に頭上に吸い上げられ、動いたのを感じたからだ。男の右腕が伸びて、わたしの身体を掴み、外の世界に弾き出される。蛇口を捻ると頭上からこの冬の冷たさを全て集めたような氷柱が脳天を貫き、身体はぼやかしていた余白を捨て、締れるだけ引き締まった。そうか、わたしは今からこの男に食べられるのか。覚悟を決めた、と思ってみたが、そう思いたった時にすでに覚悟は胸元にあった。思い返せばあの天井が割れたあの瞬間、運命がわたしに耳打ちするのを聞き逃さなかったのだと思う。」
そんな声が、口に運ぶまでの間で聞こえた気がした。わたしは手に持っていた真っ赤なリンゴにかじりつく。土から芽ぶく時の衝撃、電気に変換される。枝葉が雨を受け止め、育った時間の経過が甘みと酸味の間をすり抜けて一気にわたしの身体を駆け巡る。福島のあんざい果樹園のりんごは、甘い年、蜜の少ない年、その年々の季節の巡り具合をいつも香らせている。わたしの東京に風が吹いた。
そんな風にして、気配は手渡され、この世界の外側に人や土地があることを思い知らせてくれる。

わたしは扉を開けて外の世界に出た。どれだけわたしがその場所で静止しても世界は何の影響もなく自転と公転を続けている。今はそれだけのことに救われている。近所の珈琲屋は換気扇から焙煎した豆の匂いをもらしているし、パン屋のバイトは今日も欠伸している。少し太りすぎた猫は目の前を通り過ぎ、近くの公園に住んでいるホームレスのおばちゃんは、ゆらめくように人の波の間を回遊している。
ゆるやかに関係しながら、滞りなく流れる時間は川岸から流れる大河を見る時の気分に似ている。手前の水は細部までよく見えるが奥にいくにつれ川という言葉でしか呼ぶことができず、ぼやけていく。
わたしは深呼吸をして自転車にまたがる。半年前から作っていたものがようやく完成した連絡を受け、先ほど納車を済ませ、今手元に赤い彼がいる。神は細部に宿るなんて言葉があるが、細やかなネジまで赤くしたこの自転車はそんな精密な集中力を持っている。いい仕事をしてくれた友人に感謝している。でも真っ赤にはせず、タイヤは白くした。全てが同じ赤で統一されてるのは違う。どこかで混ざっていなくちゃいけない。ミニマルで綺麗すぎる配列には必ず嘘が含まれている。
ママチャリにいつも乗ってきたが、時代はニケツを許さなくなったし、何より今のわたしには速度が必要だった。もっと軽く。もっと速く。風よりも速く走れるものが必要だと知っていた。

銀杏並木の間を漕ぐ。サイクリングロードとして用意された道にすいこまれながら、銀杏の一番匂う季節はすぎたことを知った。一日一日季節は動いてる。ずっとベッドの上にいて、ただ時がすぎるのを待つと鈍い永遠が肺の中にたまっていく。昨日と今日の境目もなく、ただすぎさるために数えられた時の逆襲かのように、せめてもの抵抗として鉛を置いていく。わたしは口に手をつっこみ、できるだけそれらの鉛を表に引きずり出した。
夕暮れの金色が葉の間から差し込み、その筋は鉛を融解させていく。ペダルをこぐ足に重力は感じない。
十二月の寒さがハンドルを握る指先に宿る。手袋を買わなくてはいけない。鼻を啜ると、空気の匂いにわずかにリンゴの酸がまじっている。肺におくられる冬の空気で、引きずり出しきれなかった錆びついた時たちを洗う。鈍色の膜をかぶっている東京でも呼吸はできる。
自動販売機でヤクルトを買った。とどこおってたメールを返した。そのままの癖でXを開きそうになった親指を直前で静止させた。
もっと遠く、もっと見えないところに行きたい。いつでも身体は重くて、イメージより思考は重い。研ぎ澄ませ。振り払うために速度を上げる。通り過ぎる風の間に全国をまわった時のいくつもの思い出がまざっている。思い出? もうそれらは過去になったのか。ツアーを回りながらはじめからわかっていた。その感触は懐かしく、記憶の中で手を振る人、肩を叩いた人、それでも漕ぐ足は止めない。
きっとあの夕暮れの先は開けている。根拠はないけど、何かがわたしを突き動かしている。ペダルをこぐ今、わたしには風が見える。その先でチラつく炎の微動が見える。あれらをなんと呼ぶか、わたしら今、考えているところ。

*マヒトゥ・ザ・ピーポー連載『眩しがりやが見た光』バックナンバー(2018年~2019年)












