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本屋の時間

2026.03.15 公開 ポスト

第186回

からっぽの部屋辻山良雄

実家を出てひとり暮らしをはじめたとき、はたしてどのくらいの荷物を持って家を出たのか、いまとなっては思い出せない。気に入ったものを持って出るよりは、買い揃えるもののほうがはるかに多かったから、身の回りのものをダンボールに二~三箱詰めたくらいですんだのではないか。身軽であることは若者の特権だが、当時は驚くほど何も持っていなかった。

 

それから三十年以上が経ち、杉並区桃井のいま暮らしている家に至るまで、わたしは十数回の引っ越しを経験した。

最初は友人の所有するワンボックスカーで事足りた。友だち数人に来てもらい、手分けして車に荷物を積み込めば、あとはその車で都内を横断する。手間賃は近所の中華料理屋で晩飯を奢るだけ。わたしも同じように誰かの手伝いをしていたから、そのようなことはお互い様だった。

しかしそうした引っ越しが何回かあったあと、周りもみな働きはじめると、気軽には手伝いを頼めなくなった。ワンボックスカーはいつの間にか赤帽のトラックに変わり、結婚して人間の数が増えれば、車は業者の4tトラックに、そのあとはすぐに台数が2台に変わった。

猫たちが一緒に暮らすようになると、住む家も限られてくるから、一度住み着いた家からは離れにくくなる。いま住んでいる家は来年ではや10年となるが、転居続きであったわが人生も、ようやく根を生やすことのできる場所が見つかったのだろうか。

展示の搬出入や旅の行き帰りと同じで、引っ越しも、あれほど準備に時間がかかったにもかかわらず荷解きはあっという間で、記憶にもほとんど残っていない。準備に時間がかかるのは、荷物が傷まないように気をつけて梱包することもあるけど、いま住んでいる場所への未練が物事をゆっくりと運ばせるのではないか。

もう会うことのできない人がいる。送別会での会話も頭をよぎる。しかし感傷的な気分に浸りながらも、何とか徹夜で作業を終わらせた引っ越し当日、荷物をひと箱出すたびに、心がどんどん晴れていく自分がいる。

洗濯機を出す。テレビを出す。椅子もテーブルもやかんもコーヒーカップも、洋服が無造作に詰められた箱もすべて出してしまうと、この場所で起こったあらゆることがその時の感情も含めてチャラになるようで、せいせいとした。心の洗濯とはこのようなことを言うのではないか。

そして何もかもすべて出し尽くした部屋を見渡すと、がらんとして、こんなに広かったかなと思う。同じ光景を見たのはこの部屋に引っ越してきたとき以来だが、そのときよりも明らかに広く感じる。いつも思うことだが、これはいったいなぜなのだろう。

からっぽの部屋を見ていると、自分はここからやってきたのだと強く思う。それこそまだ大して荷物もなかった、ひとり暮らしをはじめたときのような。でもそこにはもう戻ることができなくて、わたしはたくさんの荷物を引きずりながら、また次の場所で生きていくのだろう。歳をとるって、少しつまらない。

今回のおすすめ本

語るに足る、ささやかな人生』駒沢敏器 風鯨社

大都市は避け、スモールタウンだけをめぐる旅。それで見えてくる世界がある。自分を大きく見せず身の丈で生きる人たち。みな元々はこうだった。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 


◯2026年2月27日(金)~  2026年3月16日(月) 本屋Title2階ギャラリー

FOGGY
花松あゆみ 個展

霧やもやをテーマにした新作の版画展。霧に包まれた幻想的な風景や、ぼんやりと現れたり消えたりする幻のようなものをイメージして描きました。今回の展示では、版を分けて奥行きを出し、輪郭をぼかして刷ったりするなど、あらたな制作方法にもチャレンジしています。
版画の展示・販売のほかに、これまで作ってきた手製本やポストカードなども並びます。ぜひご覧いただけましたらうれしいです。
 

◯【寄稿】

店は残っていた 辻山良雄 
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)

 

◯【お知らせ】

養生としての〈わたし〉語り|〈わたし〉になるための読書(8)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄

今回は、話すこと、そしてそれを通じて自分自身を考えさせられる3冊の本を紹介します。

 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。

偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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