
赤信号で車が停まった。
助手席に座っていたわたしは、後部座席に置いてあるクーラーボックスからペットボトルを出そうとして後ろを振り返った。「手、届く?」と運転席に座っていた夫も振り向く。そして
「あ。来る」
と言った。何が? と問う間もなくぐしゃりと変な音がして車の後部が歪んだ。後ろから追突されたのだと気付いたのはそれから数秒後で、その間に、運転席にいた彼はすでに車を降りて後ろの車に向かって走っていた。わたしも慌ててシートベルトを外し車の外に出た。
わたしの乗っていた車(1)にはその後ろの車(2)が、後ろの車(2)にはさらにその後ろの車(3)が、そして(3)の後ろには大きなトラック(4)がぶつかっていた。
四台の玉突き事故だった。
トラックの運転席の窓ガラスは遠目からも大きくひび割れているのが分かり、その手前の軽自動車は前後が潰れていた。軽自動車の脇には若い女性が立っていて何かをヒステリックに叫んでいる。夫を含む3、4人の男性が軽自動車後部を覗き込んでいる。何かを救出しようとしているように見えた。車からは水のようなものが流れ出て道路を濡らしている。わたしは乱視で遠くのものはすべて紗がかかって見えるから、すべてが夢の中の出来事みたいだった。
「電話だ、電話しなきゃ」
と、わたしは自分を落ち着かせるためにひとりごとを言って、車から携帯を出し110番を押した。すぐに相手が出て、「事件ですか事故ですか」と言った。
「事故です。車の」
場所を聞かれ少し詳しく話すと、他にも通報が入っています、と電話の向こうの人は言った。
「ああじゃあわたし切ります」
ほっとして言うと、
「証言は多いほうがいいのでこのまま質問に答えてください」
と、電話の向こうの人は言った。わたしははいと答え電話を続ける。その間、ずっと同じ場所に突っ立っていた。軽自動車の女の人があんなに泣き叫んでいるということは、後部座席に動物とか、もしかしたら赤ん坊とかが乗っているのかもしれない。もしそうなら。足がすくんで動けなかった。怪我人がいるようでしたら救急にも電話をしてくださいと言われ、わたしは電話を切った。携帯を持つ手が震えていた。
救急はまた別で電話しないといけないなんて知らなかったな、と思いつつ、わたしの足はようやく軽自動車のほうへ向かった。後部座席の捜索はすでに終わったようだった。赤ん坊も動物も見あたらなかった。想像していたような血の海もない。軽自動車に乗っていたのは一人だけだったようだ。少しだけ安心する。
道路脇には、その軽自動車を運転していた女性がパニック状態で泣きながら何か言葉を発し続けている。頭と胸と足に血が飛び散っており、怪我をしているようだった。その血を若い男性が「ごめんね触るよ」と言いながらティッシュで押さえるようにして拭き取る。「大丈夫、顔の傷はたいしたことない。残らないよ」男性はそう彼女に優しく言った。
怪我をしていることは分かったので救急にも電話し、彼女たちのほうへさらに近づいた。よく見ると、彼女が何かを話し続けている相手は携帯電話だった。
「大丈夫? 何かできることありますか?」
彼女に尋ねるが、彼女は携帯の相手との話に夢中で聞いていない(あとで夫に聞いたが、みんなが後部座席を覗き探していたのは携帯電話だったそうだ。彼女は泣きながら「携帯、携帯を探して!」と叫んでいたとのこと)。彼女の手当てをしていた若い男性がわたしに「日傘ある?」と言った。確かに真昼で日差しが強く、外気は36度を軽く超えていた。この状態でただ右往左往している他の被害者たちと違って、今何が必要かを瞬時に理解している彼が心強かった。
わたしは急いで車に日傘を取りに戻り、怪我をした彼女を影の中に入れた。近くの会社の社員さんたちも冷たいお水や清潔なタオルを持って集まってきてくれていた。
興奮状態で泣きながら話し続ける彼女の隣にしばらくいて、ようやくその涙の理由が分かった。彼女は今日、推しのライブに行く予定だった。ものすごく良席でしかも友人の分のチケットも彼女が持っているのだという。
彼女が興奮し話し続けるのを、若い男性は手当をしながらうんうんと聞く。おっとりとして笑顔で、どこか沖縄弁のようなイントネーションだった。彼がとても落ち着いているので、彼女も、そして事故に巻き込まれた被害者の一人であるわたしも、少しづつ冷静さを取り戻していく。手の震えはいつのまにか止まっていた。怪我をした彼女も泣き止んでいた。
そこうしているうちに警察と救急車が来た。
興奮状態だからなのだろう、彼女はまだ大きな痛みを感じてはいないようだった。血の出た場所と打った足以外はなんともないと言う。「頭も大丈夫」と言いながらぶんぶん頭を振る彼女に、沖縄弁の男性が「首動かしちゃ駄目だよー」と言った。彼女は笑った。周囲の人たちも笑って、ああ、これは酷い事故じゃない、と思うことができた。
怪我をした彼女は担架に乗ったあともずっと、「今日のライブは絶対に行く」と言い続けながら救急車で去っていった。それを見送ってようやくほっと息をつく。今日は知人のお見舞いに行く予定だったけれど、それはキャンセルしなきゃいけないな。
警察の人たちがやってきて、順番に事情聴取をします、と言った。運転手たちが先なので、助手席にいたわたしは最後だ。
沖縄弁の男性がわたしのもとへやってきて「じゃあ僕、行きます」と笑顔で言った。どこへ? と思いつつ、わたしは「ありがとうございました」と笑顔を返す。男性を見送るとすぐにわたしの事情聴取の番が来た。車はここに停まっていて、衝撃が一度あって、はい一度です、などと話す。ばたばたしているうちに時間が過ぎた。ほかの被害者と加害者とも話をして連絡先を交換し、「加害者への厳しい罰則は望まない」という書類に押印し終えたときには、すでに数時間がたっていた。
レッカー車を待っている間に、夫に、あの沖縄弁の人がいないね、と言うと、「あの人は事故に遭った人じゃないからね」と言った。どうやら、加害トラックの後ろに停まった車の人だったらしい。
「え、じゃああの人の連絡先は誰も知らないの」
「だね」
「警察も?」
「だろうね。事故には関係ないから」
「被害者を一番助けたのはあの人なのに?」
あの人がいなかったら怪我をした彼女はもちろん、わたしたち他の被害者たちもあんなに冷静でいられなかった。なんだったら警察に表彰して欲しいくらいだ。いやひょっとして彼の連絡先を聞くことができたのはわたしだけだったのでは? それに気付いて自分のふつつかさに茫然とする。
きちんとお礼を伝えることもできなかった。
ヒーローってのはほんとに名乗らないものなんだな、などと思いながら、さっきまで自分が乗っていた車を見る。死んでしまったおじさんの古い車を譲ってもらって三年ほど乗った。さすがに廃車だろう。車がなきゃどこにもいけない。でも車ってどうやってお店で買うんだろう。なんか首も痛い気がするし。わずらわしいことがいっぱいだ。ため息をつきながら沖縄弁のヒーローのことを考える。せめて彼の乗っていたトラックを見ればよかった。会社名だけでも分かればお礼を伝えられるのに。
それから数日後、事故に合った道を代車で通った。
少し怖かったけれど、あの沖縄弁の男性のことを思い出したら恐怖より感謝のほうを多く感じた。名前も知らないヒーロー。
SNSで探してみようかな、とも考えたけれど、やめた。
きっと世の中は、そんな、名乗らない市井のヒーローたちで溢れているのだろう。そう思ったらこの世界もそう悪くないと思えた。
願わくば、世界にたくさんいる名も無きヒーローたち全員に、とてつもなくいいことが起こりますように。
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愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。