
前回、マンガ教室に通い始めた経緯を語った。
売れるマンガも売れる小説も一握りなのだが、作品が売れたときの爆発力、拡散力はマンガのほうが大きい(ことが多い)。それはどうしてなのか。
結論は非常に単純で、「マンガのほうが分かりやすい」からだと思う。分かりやすいから幅広い層に届く。読める人、理解できる人が多いのだ。
マンガは小説と比べると、分かりやすく作りやすい媒体であり、それゆえにマンガ業界自体が「分かりやすさ」により大きな価値を置いている。「分かりやすさ」がマンガの基本要素として、出版にあたっての絶対条件になっている(と言っても過言ではないと思う)。
マンガ界からは「文学的なマンガも沢山ある。そういうマンガは必ずしも分かりやすくない(分かりやすさより優先される価値がある)」と突っ込みが入るかもしれない。もちろん、「分かりにくいマンガ」もあると思うが、「分かりにくい小説」と比べると、ずっと分かりやすい。「分かりにくい小説の分かりにくさ」は一般の人の想像以上に、本当に分かりにくい。
例えば読書に慣れていない人がいきなり大江健三郎の文章を読んだら面食らうだろう。毎日本を読んでいる私でも、「ようし」と身構えて読まないと理解できないことがある。かといって大江健三郎の小説が悪いわけではない。小説においては「分かりやすさ」がそれほど重視されない(他の要素に力点が置かれることもある)ということだ。

小説を読む行為は登山に似ていると思う。
簡単に登れる山もあれば、トレーニングしないと登頂が難しい山もある。難易度の高い山に挑戦するのは大変だが、その山に登らないと見えない景色がある。幼いころから本を読む習慣がある人は高山で育った民のようなもので、息を吸うように毎日山に登る。だがこれまで山に登ったことがない人は、名山を勧められても急には登れない。ちなみに、日本一(そして世界一)登山者が多いのは高尾山らしい。歴史があり景色が綺麗なのももちろんだが、都心からのアクセスが良く、登頂のために特別な準備が要らないことが人気の一要因だろう。
マンガはこの点、特別な装備なしに気軽に出かけられる公園のようなものだ。疲れたらベンチで休めるし、自動販売機もある。ユーザーのための「人工物」が充実しているとでもいおうか。読者をもてなすための表現の選択肢が実に多彩なのだ。
コマ割りを自由にしていいし、吹き出しの大きさや太さも選べる。文字の大きさやフォントも変えられる。これは究極的には、コマ割りの線や吹き出し、文字も「絵」の一部だからだろう。一枚の絵、あるいは物語の一場面としてすべてを最適なものに設定できる。
例えば、強調したい場面があればとりあえずコマを大きくする。読者は大コマを読み飛ばさないし、大コマ内の台詞も(多分)読んでくれる。
だが小説だとこういうことができない。基本的には、地の文と会話文の二つしかない。文字の大きさやフォント、配置を変えることはできない。改行もあまりできない。冷静に考えると、非常に抽象的で単一的な表現手法である。この表現的制約の中で、読者にストレスをかけない作りにするのはとても難しい。一応、色々と工夫はしている。重要な情報は会話文の中に入れたり、場面転換時に改行したり。ライトノベルの世界では、より大胆に改行したり記号を多用したりして、直感的な読みやすさを追及する傾向にある。だがいずれにしても、マンガで出来ることと比べると微々たるものだ。
小説は窮屈な媒体だなあと思う一方で、逆に「小説の方がのびのびしていて自由だな」と感じることもある。それは尺の感覚だ。
マンガは16頁なり24頁なり、厳格な枚数制限の中で、無駄のない作りを目指さなくてはならない。意味のないコマを一つも入れられない。対する小説は、もう少しゆったりしている。原稿用紙50枚の依頼に53枚くらい書いても許される。長編の場合は300頁の予定が400頁になってもよかったりする。物語の本筋と関係のない文章を入れたって怒られない(むしろ、ディティールの厚みとして評価されることもある)。
街の中に公園をつくるなら一㎡たりとも無駄にできないだろうが、山であれば「この空きスペースは無駄だ」と騒ぐ人はいないわけだ。
表現手法に制約があるが尺は自由な小説と、表現手法は多彩だが尺の制約がより厳しいマンガ。一長一短、どちらにも制約がある。とはいえ制約は必ずしも「悪」ではない。制約があることで知恵をしぼらざるをえず、よりよいものが生まれるからだ。
小説の場合、言葉、文章だけで表現しなくてはならないから、文章表現の技巧が研ぎ澄まされる。他方マンガでは尺の制限があるため、プロット(物語の構造)をかなりシビアに考えることになり、企画の段階でも記号的でキャッチ―な設定が必要となる。
私は小説で育った人間なので、どうしても足腰が小説向けに出来ている。でっかい山を走り回るのが好きで、自分が作るのも公園ではなく山になってしまう。だけど誰も来ない山は寂しい。人々が集う公園を見にいって、その秘訣、創意工夫を盗んで山に持ち帰ろうと思っている。

帆立の詫び状の記事をもっと読む
帆立の詫び状

原稿をお待たせしている編集者各位に謝りながら、楽しい「原稿外」ライフをお届けしていこう!というのが本連載「帆立の詫び状」です。