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帆立の詫び状

2024.04.04 公開 ツイート

ノーチラスをめぐる戦い② 新川帆立

パテックフィリップの大人気モデル、ノーチラスを手に入れると決意したものの、できることは少なかった。

 

とりあえず中古市場を探してみる。ロンドンの高級時計店で目にした2500万円という値付けはさすがに高いが、他の店で少し古いモデルや、一番人気ではない色の文字盤のものなど、幅広く探しても1000万円前後はしそうだ。需要と供給で値段が決まるので、おとなしく金を出すのも一つの考え方だ。だけど私は悔しくて、どうしても乗れない。お金を払うのは別にいいのだけど、せめて適正な価格であってほしい。さらにいうと、できれば私のお金は物作りをする職人のもとに届いてほしい。

 

そうなるとやはり、正規店で購入するしかない。時計に興味がない人からすると、「店に行って普通に買えばいいのでは」と思うかもしれない。だが正規店で定価購入するというのが、実は一番難しいのだ。

 

入ってくる商品数が少ないため、ふらっと店に行って「買える商品が並んでいる」という状況は奇跡に近い。ではどう買うのか。正規店はウェイティングリストを用意していることが多い。「このモデルがほしいです」と希望を出して、待ち列に並ぶのである。人気モデルなら三年から五年待つのは普通で、十年近く待つ人もいるという。商品がいつ入ってくるか分からないし、他に何人並んでいるかも分からない。だが、私にできることは一つだけ、軍資金を握りしめ、ただひたすら「待つ」ことだ。

 

「ノーチラスを手に入れる戦い」などと大きなことを言ったわりに、待つだけかよ、と思う人もいるだろう。だが何もせずに待つというのは、案外つらいものなのだ。街ゆく人の腕時計がやたらと気になる。電車のつり革をつかむくたびれたサラリーマンの腕に、ノーチラスの初期モデルがはまっていたときは、思わず話しかけたくなった(自重して話しかけはしなかった)。六本木にいた外国人観光客が金無垢でダイヤもりもりのレディースノーチラスをつけていて、目で追ってしまったこともある。

↑先日パリにいったとき。つけているのはウブロのクラシックフュージョン。フランスの彫刻家オーリンスキーとコラボしたモデルだからか、行く先々でフランス人に褒められた。大きめのメンズモデルでもビビらずにつけることにしている。

ある日のこと、銀座のバーで談笑していると、六十歳くらいの身なりのいい男性が入ってきた。その男は、私の顔を見るなり「君の本、読んだよ! つまらなかった! 面白いのは最初の三十ページだけ。ひどいね、あれは。なんであんなのが売れるのか分からない」と言い放った。どうも、バーのママの勧めに従って私の本を読んでみたものの、彼にはいまいち刺さらなかったようだ。それにしても、歩くアンチレビューのようなおじさんの出現に、私の心は凍りついた。つまらなかったとしても、初対面の著者本人に伝えなくてもいいじゃないか。しかしその男は続けた。「他の人はチヤホヤしてくれるかもしれないけど、俺はこういうの、正直に言っちゃうタイプだから」

 

「うっるせーよ!」と言いかけたそのとき、男の腕に光り輝く時計が見えた。「あっ、ノーチラスじゃないですか!」思わず口にしていた。「うっわ、しかも5711。ほしかったやつだ」

 

ロンドンで見たのとまったく同じモデルだ。目の前のおじさんは大変憎たらしいが、つけている時計は最高である。向こうも嬉しそうに「もう生産終了したから手に入らないよ。俺はウェイティングで何年も待って手に入れたけどね」と時計談義に入っていく。くそ、くそう・・・・・・と心の中で歯ぎしりした。

 

本当に不思議なことだが、くそウザいやつにかぎって、時計の趣味だけは良かったりする。私が二十代半ばの頃に参加した地獄のような合コンで、相手の男が腕時計を外して、女の子たちに回し始めたことがある。「これ、二百万くらいした。限定モデル」。突然始まった時計自慢に、女の子たちは「はあ、すごいですね」としか言いようがない。だが時計好きの私としてはほぞをかむような思いだった。男が見せてきたのは、ウブロのクラシックフュージョンのジーンズモデルで、確かに良い時計だった。元野球部でやんちゃな雰囲気のあるその男にもよく似合っていた。性格は最悪なのに、時計の趣味だけはいいのだ。

 

私はその時計についてコメントしたい気持ちと、コメントすると褒め言葉になってしまうから、この男を絶対に褒めたくないという気持ちとのせめぎ合いで、「あーはい、良い時計ですね」としか言えなかった。向こうもこちらが時計ガチ勢だとは想像もしていないだろう。私はそのとき、オメガのデ・ヴィル(エバーローズゴールドとスティールのコンビの時計)をつけていた。どこでもつけられて上品で、かなり気に入っていたが、目の前の男に対抗できるほどのインパクトはない。

 

そもそも、高級腕時計というジャンルにおいて、女性は舐められているのではと思うことが多々ある。女はムーブメントになんか興味がないだろう。とりあえず薄型にしておいて、ダイヤを散らして、貴金属でキラキラさせときゃ良いだろう、という開発者の声(私の妄想だが)が聞こえてきそうなときもある。

 

メンズモデルでは機械式なのに、同じデザインのレディースモデルはクオーツでつくっているのを見ると、「いや、もっと頑張れよ!」と言いたくなる。決して、クオーツ時計が悪いわけではないが、男女の扱いの差が気になるのだ。男性用の高級腕時計では「薄型モデルなのでクオーツにしました」とはならない気がする。頑張って薄型モデル用のムーブメントを開発するのではないだろうか。レディースモデルに搭載する薄型小型のムーブメント開発も、諦めずに、技術の限界に挑戦してほしい(というのが個人的な願いだ)。歴史的に見ても、紳士が使っていた懐中時計が婦人用に小型化された結果、世界最初の腕時計(ナポレオンの妹カロリーヌのためにブレゲがつくったもの)にいきついたのではないですか・・・・・・。

 

私はややこじらせた時計愛好家なので、ダイアありのモデルとダイヤなしのモデルが並んでいると、あえてダイヤなしを選んでしまう。「私がほしいのは時計である。時間の分かるブレスレットがほしいわけじゃない!」と、意味不明なことを口にしながら・・・・・・。

 

さて、このように、様々な時計保有者との密やかな戦い(独り相撲ともいう)を繰り広げながら、私は待った。そしてある日のこと。見知らぬ番号から電話がかかってきた。「以前、購入のご希望をいただいていたパテックフィリップのノーチラスですが・・・・・・」

 

そのときの喜びといったら。「やったー!」とはならず、むしろ無表情のまま、部屋の中をうろうろしてしまった。納品までの数週間、ずっとそわそわしていた。仕事をしているときもふと手をとめて、ノーチラスのことを考えてしまう。『海底二万里』は当然再読した。メーカーのホームページを何度も読み、その哲学や、時計の設計に宿る精神性をかみしめた。

余談ではあるが、デザイン、ケースやブレスレットの構造と素材、中に詰める機構などはすべてつながっていて、一つを優先すると他がゆがむことがある。統一的な理念のもとにつくらないとバランスがとれないわけだ。バランスの悪い時計というのもまた愛おしいものだが・・・・・・などと考えながら、さらに、時計について語るYoutube動画を二倍速で大量に見て、気を紛らわした。

 

いよいよ納品日がやってきた。高揚感というよりも「早く解放されたい」という謎のストレスを感じながら、時計店に向かった。実物を見ても意外なほどに心は動かない。淡々と購入手続きをすませて店を出た。心が「スン……ッ」となっていて、なるほどこれが時計好きの男たちが言う賢者タイムというものか、などと考えている自分もいる。

 

ところが、手に巻いていると、じわじわとこみ上げるものがある。何度も時計を見てしまう(が、時間を確認しているわけではない)。風呂に入るのに時計を外し、パジャマを着てからまた時計をつける(私は一日のうちほとんどの時間、時計をつけている人間だ)。

 

時計をつけたまま寝て、朝、起きた。今何時だろうと思って左手を目の前にかざす。自分の腕にノーチラスがはまっていたときの驚きといったら。「ううう……ノーチラスだあ……」と言いながら、ベッドの上でエビのように丸まった。一生懸命仕事をしてきてよかったし、これからもなんとかやっていこうと思えた瞬間だった。

関連書籍

新川帆立『帆立の詫び状 てんやわんや編』

デビュー作『元彼の遺言状』が大ヒットし、依頼が殺到した新人作家はアメリカに逃亡。ディズニーワールドで歓声をあげ、シュラスコに舌鼓を打ち、ナイアガラの滝で日本メーカーのマスカラの強度を再確認。さらに読みたい本も手に入れたいバッグも、沢山あって。締め切りを破っては遊び、遊んでは詫びる日日に編集者も思わず破顔の赤裸々エッセイ。

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帆立の詫び状

原稿をお待たせしている編集者各位に謝りながら、楽しい「原稿外」ライフをお届けしていこう!というのが本連載「帆立の詫び状」です。

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新川帆立

1991年2月生まれ。アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身、宮崎県宮崎市育ち。東京大学法学部卒業。弁護士。司法修習中に最高位戦日本プロ麻雀協会のプロテストに合格し、プロ雀士としても活動経験あり。作家を志したきっかけは16歳のころ夏目漱石の『吾輩は猫である』に感銘を受けたこと。2020年に「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した「元彼の遺言状」でデビュー。他の著書に『剣持麗子のワンナイト推理』『競争の番人』『先祖探偵』『令和その他レイワにおける健全な反逆に関する架空六法』『縁切り上等!』などがある。

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