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本屋の時間

2023.07.15 公開 ポスト

第154回

軽くて、かなしい辻山良雄

ここ二カ月半というもの、猫のてんてんの具合がずっとよくない。ごはんのとき以外はあられもない格好をして、一日中絨毯に寝そべっている。

 

そもそも猫という動物は、「実は、昨日から胃がしくしく痛んで……」といったように、人間の言葉をしゃべることがないので、明らかにおかしな状態でなければ、昨日と今日では同じ顔をしているように見える。まあ、最近じっとしている時間が多いけど、この猫ももうすぐ七歳だからね(猫の世界では、七歳くらいからシニア猫に分類される)と呑気に構えていたところ、ゴールデンウィーク中のある朝、彼の姿をじっと見ているうちにやはり何か感じるところがあり、すぐに病院まで連れていった。

「最近あまりごはんを食べてなくて、じっとしている時間が多いんです」

「そうですか。口のまわりをクチャクチャしたりはしませんでしたか」

「あ! そう言えばクチャクチャしますね……」

それを聞いた先生の顔はシリアスなものに変わり、てんてんはそのまますぐ検査ということになった(あとから知ったのだが、猫が口のまわりをクチャクチャするのは、気持ちが悪いというサインなのだ)。結局てんてんは腸炎という診断を受け、幾つか薬も処方され、その日はそれで帰ることになった。

薬が効いたのか、彼はその後元気を取り戻し、「これで安心、このままよくなれば」と思っていたところ、二週間ほどするとまた食欲がなくなり、ある朝、真っ黄色のおしっこが出た。あわててまた先生に見せにいき、すぐに検査をすると、胆管肝炎(たんかんかんえん)を併発したのではないかということだった(「ではないか」というのは、猫の病気ではまだはっきりとわかっていないことが多く、数値から病気を類推するしかないのだ)。

それで、通常胆管肝炎の治療に用いられる、ステロイドという薬を処方されたが、飲みはじめて何日か経った頃から、一心不乱に、もの凄い勢いで水を飲むようになった。

勢いよく水を飲めば、当然出すおしっこの量も増える。「突然どうした」というおしっこの量を見て、驚き呆れ、すぐにネットで検索してみると、稀にステロイドの副作用により、血液内の糖を細胞内に取り込む働きをするインスリンというホルモンが、充分に分泌されなくなる猫がいるという。その猫は結果として血糖値が高くなり、「糖尿病」になってしまうのだ。いまこうして振り返っても、どうしてそんなことにと思うことばかりだが、てんてんはわずか二カ月のあいだに、胆管肝炎と糖尿病を併発する猫になってしまったのだ。

左から、すず、てんてん、あずき

わたしはそんな受難続きのてんてんを見て、〈最近実家の雨漏りがひどく、仏壇にも被害があったから、そこにいるはずの両親が怒っているのではないか〉と思い、実家の方に向かって般若心経を唱えてみたのだが、あまり効果はないようだった。猫の糖尿病では、糖分をエネルギーに変えられないまま尿として出してしまうため、体内にあるたんぱく質や脂肪をエネルギー源として使うことになる。その結果、てんてんは見るも悲しく、ひと月のうちに一キロ近く(五キロのうちの一キロだ)痩せてしまった。

彼は突然起こった自分の体の変化に、とまどっているようにも見えた。なぜ自分はこんなに水を飲んでいるのだろう……。背中を撫でてあげると、背骨の感触が直接指先まで伝わってきて、持ち上げて抱っこをすれば、想像していた重さよりも、ふわり手応えがない。軽いということがこんなにも悲しいことだとは、その時まで想像もしなかった。

 

軽さ/重さということで言えば、以前、上野動物園に行ったときのこと。ショップでは、動物園で飼われているシャンシャン(香香)やシャオシャオ(暁暁)などのパンダのぬいぐるみが売られていたが、大人の姿のものに混じり、生まれたてのピンク色の姿――大きさも重さもほぼ同じ――に似せて作られたぬいぐるみが販売されていた。いま現物が一つあるが、そう思って持ちあげてみると、どこか生命そのものを手にしているようでもあり、実際の重さよりも重たく感じる。

人でも動物でも、いのちが一つ失われることは、地球上に存在する重みのうち、その一つが消えてなくなってしまうということだ。焼場でのお骨上げの際、骨にだって重さはあるはずなのに、まるで〈ゼロ〉を持ち上げているような感触にとまどったことがある。その手応えのない〈軽さ〉をもって、わたしたちははじめて大切なものが失われたことを知るのだ。

 

てんてんは、少しよくなったかなと思う日があれば、またしんどそうな日を繰り返しながら、全体としては快方に向かっていると思う。猫の糖尿病は快癒することもあるし、よく付き合えばその猫に与えられた寿命も全うできるというから、少しずつ体重を戻しながら、長生きできるようサポートしたい。

日に何度か、彼の目にらんらんとした光が宿る瞬間があって、そんな時はつくづく、てんてんは生きることが仕事なのだと思う。いや、ほんとうは誰だってそうなのだろうが、人間は意味にしばられやすい生きものだから、時としてそれを忘れてしまうのだろう。

今回のおすすめ本

幸せな日々』多賀盛剛 ナナロク社

「ある」ということの辛さ。心を持ってしまったもののかなしみ。そうした感覚を手放さず、まっすぐに歌にしたこの歌集。これが驚きでなければ、いったい何なのだろう。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

◯2024年7月12日(金)~ 2024年7月28日(日)Title2階ギャラリー

Exhibition『SKETCH FROM THE ZOO BY TAKEUMA』

イラストレーターとして活躍するタケウマさんのスケッチに焦点をあてた作品集『SKETCH FROM THE ZOO BY TAKEUMA』(LLC INSECTS)の刊行を記念して、複製画の展示を開催します。のびやかに独自の考察を1枚に込めたスケッチの数々をどうぞご覧ください。
 

◯【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
 

【書評】NEW!!

『長い読書』島田潤一郎(みすず書房)ーー隅々に宿る人生の機微[評]辻山良雄
(北海道新聞 2024.5.26 掲載)

好書好日「イラストレーターの本 「本」の固定観念を覆すエッセイ」辻山良雄
(朝日新聞 2024.6.8 掲載)
 

【お知らせ】

我に返る /〈わたし〉になるための読書(2)
「MySCUE(マイスキュー)」

シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第2回が更新されました。
 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
 

黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編  / お買いもの編
 

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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