
私の地元である静岡はとても盛り上がっている。
新しく始まるNHKの大河ドラマ。
「徳川家康」が主人公ということで、どこに行っても「家康」という文字が目に入ってくるぐらい、放送が始まる前から家康づくし。
初詣に行った久能山東照宮は特に家康で埋め尽くされていた。その効果はとても大きく、
「ここが家康のお墓か〜」「愛馬のお墓まである〜」と、ちょっと変な高揚感に包んでもらった。
歴史に疎すぎる静岡人でも、やはり、「徳川家康」「葵の御紋」といったものには馴染みがあるというか、よくわからないながらに小さな頃から染みついた何かはある。
そんな高揚感を持っていたからか、お参りが終わったあとに改めて見下ろした景色に驚いた。
「静岡ってこんなに綺麗な海があるんだ。。この海なんか、すごく、落ち着く!」
もっと青い海や色んな綺麗な海を見てきたけれど、これが生まれた場所の力なのかと思うような不思議な気持ち。
特に私は静岡の中でも海の近くで育った訳ではないので、子供の頃、頻繁に海を感じてはいなかった。それなのに、あぁここが私のふるさとかぁと思うような瞬間だった。

1番馴染む海はここなんだなぁと感じた瞬間。
数年前、富山に映画の撮影でお邪魔した。
家の中に篭っての撮影だったけれど、シーンが変われば、衣装替えのために、隣の家に移動する。
家から出るたび、山が見えて、なんとも救われるような気持ちになった。
その瞬間、「あぁ、やっぱり山だ」と心で思った。
「やっぱり」というワードが何故浮かんだのかは謎だった。
海派か山派かといえば、完全に海派だと思って生きてきた。でもその富山で出てきた気持ちを痛感してから、完全に山派に移行した。
そしてそのあと、以前から好きな京都に訪れた際、「私ここに住む気がする!」と急に思った。
昨年、地元の静岡に帰郷した際、ふと子供の頃通っていた道を散歩した。
そこで兎に角驚いたことがある。
山が見えるのだ。
私の記憶の中には全く残っていないけれど、私は山が見える場所で生まれ育ったらしい。
車で色んな方向に移動すると、かなりの確率で山が視界に入ってくる。これは京都に居る時に得る感覚と似ている。
こんなに山に囲まれていたなんて。
本当に記憶になくてびっくりする。
富山で山を見て救われるような気持ちになったのは、懐かしい景色に似ていたからなのかもしれない。
ずっと前から京都が好きなのも、無意識に山を感じていたのかもしれない。
本当に自分の子供の頃の記憶には、海も山も残っていない。それなのに、心のどこかに染みついた、懐かしき記憶が私の中にあるんだなぁということに、何故だか感動した。
自分でもよくわからないのだけれど、私は覚えていない昔のことが多い。
特段ショックを受けるような経験をした訳では全くないはずだけど、記憶から消したいことが多いのか、普段から何となく生活しすぎているのか、、。
細かく覚えていることと、全く覚えていないことの差が大きい気がしていたので、海や山から懐かしさを感じられたことに、こんな私にも染みついた何かがあるということに、安心したのでした。
もう何年も前から、自然が豊かなところで生活したいなぁと思っている。
この仕事をしていなければ、東京に居る理由はない。だからか、隙あらば東京から離れる癖が付いているのかもしれない。
東京に疲れたのかと思っていたけれど、もともとのんびりした所に慣れているのかもしれない。
そう思ったら、少し、焦りが消えた。焦りというか、
東京から離れたいと何年も思っていたことに対する謎の罪悪感というか。
仕事の為に東京に居るという感覚が、自分を苦しめていたのかもしれない。
何の為に生きているのか、本当は何を1番大切にしたいのか、特にここ数ヶ月はずっと自問自答している。
東京に居なければこんな気持ちにならないのではと考えてしまう現実逃避感に、また自分にため息といった気持ちになりそうだったのかもしれない。
東京は好きな所もたくさんあるし、大好きな人たちもいっぱい居る。
好きな場所なのに、窮窟にしてしまうのは、自分の思考の選択ひとつだなぁと思ったのでした。
自分がどれだけ自分と向き合えるのか、時間も場所もまわりの人も全く関係ない。
どこに居ても、何を感じても、誰にも関係ない。
結局は、一生付き合っていくのは、自分だけなんだよなぁと思ったりした、変な出来事なのでした。