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本屋の時間

2022.11.15 公開 ツイート

第145回

愛しの西武線 辻山良雄

上京して最初に住んだのは西武池袋線沿線の街だった。まだ東京の地理は何もわからず、とにかく早く住む場所を決めなければと内心焦っていたので、入学した大学の学生課に貼り出されていた物件を勧められるままに借りた。決め手になったのは「新築である」という一点のみ。いまでは信じられない話だが、街の名前も大学までの距離も、まったく考慮に入れていなかった。

 

高田馬場にあった不動産屋の車に乗り込み、はじめて生で聞く標準語に軽くショックを受けながら、三十分以上は走っただろうか。「ここです」と言われ車を降りたのは、東久留米駅から歩いて十五分くらい行った先にある、もう埼玉県にほど近い工事中のアパート。東京とは案外さみしいところなんだなとその時思った。

それからも西武線との縁は切れず、二年して新宿線の花小金井に引っ越した。その後しばらくは山手線内の雑司が谷に住んでいたが、決めた就職先が池袋に本社・本店のある会社で、最初の配属先も池袋線の大泉学園だったので、同じ沿線の椎名町駅と東長崎駅のあいだ、昔トキワ荘のあったあたりにふたたび舞い戻った。

 

それで私は、東長崎の駅まで歩いた。寒くもなく、暑くもなく、気持ちのいい天気の日だった。(中略)昔はもっと商店の並ぶ通りだったのだろうが、今は築浅の住宅の合間に古い構えの店がごくわずかに点在するだけで、私が住んでいる間にも、駅の前や駅のそばの商店街も古い店が閉まって新しいチェーン店がだいぶ進出してきた。

滝口悠生『高架線』(講談社文庫)

 

本当はそうではないのだろうが、わたしが住んでいた当時の東長崎駅は、ずっと工事をしているような印象の駅だった。当時池袋線自体、高架化されている区間の延長に伴い、至るところで工事をしていたように思う(東長崎の工事は高架化とは関係がない)。滝口さんの書いた東長崎の風景も、鉄道会社が駅周辺の再開発を進めていく前夜、沿線のどの街にも見られそうな景色のように思えた。

そんな偶然も重なり、わたしの中の東京の地図は、長年北西部だけがいやに解像度が高く、そのほかの地域はぼんやりとしていた。中央線の線路まではかろうじて地名が入っているのだが、それより南にくだるとただ住宅地がのっぺりと続いている地域にしか見えず、いまでも小田急線や東急線に乗ると少し異国に来たような気になって、窓の外をきょろきょろと眺めたりしてしまう。

俗に()(かしら)公園の井の頭池、善福寺(ぜんぷくじ)公園の善福寺池、石神井(しゃくじい)公園の三宝寺(さんぽうじ) 池を、武蔵野三大湧水池というそうだが、それぞれの近くに住んだことがあるというのが、わたしの密かな自慢である。どこの池も近くに縄文時代の遺跡があり、はるか昔から人が集まるよい場所だったことが窺い知れるが、この辺りの話は長くなるので割愛する。

いまは店に通うのに便利な、善福寺池からほど近い場所に住んでいるが、十年以上通っている美容室が大泉学園駅の近くにあるため、三宝寺池の脇も定期的に通りかかる。わたしが住んでいる杉並区とかつて住んでいた練馬区とは区境を南北に接しているが、美容室にいくため南から北へ自転車で西武新宿線を超えると、「練馬に入った」という気配が濃厚になる。通りで見かける選挙ポスターの候補者の顔が違うということもあるかもしれないけど、空気が何というか少し弛緩しているのだ。天気は同じはずなのだが、練馬に行くときは大体晴れていて、少しだけ眠たくなる。

わたしはこの三宝寺池の近くにも六年ほど住んでいた。それは勤めていた会社の地方勤務を経てまた東京に戻ってきた頃の話で、その場所にしたのは石神井公園が池袋の本店に通うのに便利だったから。しかし本店の仕事はプレッシャーのかかるもので、生きること自体に行き詰っていた時期でもあったから、二十三区内にしては野趣あふれるこの池に大いに救われるところがあった。

休みの日には本を片手に三宝寺池まで行き、木道でカワセミを待っているカメラ愛好家や将棋を指しているおじさんたちを横目に、いつものベンチに座る。持っていった本を読むこともあったが、大抵は頭上から差してくる木洩れ日を見ていることの方が多かったと思う。

ふゎぁー、疲れたなぁ。このまま消えてなくなりたいなぁ……。

自然がそんな悩みに応えてくれるはずはないのだが、そのいつも変わらなくそこにある感じに、沈んだ気持ちも少しだけなぐさめられるような気がした。

去年、自転車で近くを通りかかった際、ふと思い立って池まで降り、当時と同じベンチに腰をおろした。木洩れ日は変わらずそこにあったが、意外だったことといえば、そこに座っても何の感興も起きなかったのである。

それは「ここに来なくても、わたしはもう大丈夫」というサインだったのかもしれない。

今回のおすすめ本

世界はこんなに美しい アンヌとバイクの20,000キロ』エイミー・ノヴェスキー ジュリー・モースタッド・絵 横山和江訳 工学図書

国境線など引かれる前から、道はどこまでも続いていた。それに心を奪われるようにして、アンヌはどこまでも進んでいく。しなやかで芯のある、うすいパープルの色。バイクで世界一周したはじめての女性を描いた、スカッと爽やかになる絵本。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

○2024年4月12日(金)~ 2024年5月6日(月)Title2階ギャラリー

『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』小林エリカ原画展

科学者、詩人、活動家、作家、スパイ、彫刻家etc.「歴史上」おおく不当に不遇であった彼女たちの横顔(プロフィール)を拾い上げ、未来へとつないでいく、やさしくたけだけしい闘いの記録、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』が筑摩書房より刊行されました。同書の刊行を記念して、原画展を開催。本に描かれましたたリーゼ・マイトナー、長谷川テル、ミレヴァ・マリッチ、ラジウム・ガールズ、エミリー・デイヴィソンの葬列を組む女たちの肖像画をはじめ、エミリー・ディキンスンの庭の植物ドローイングなど、原画を展示・販売いたします。
 

 

【書評】New!!

『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
 

【お知らせ】New!!

「読むことと〈わたし〉」マイスキュー 

店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
 

黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編  / お買いもの編
 

◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化決定!!】

スタジオジブリの小冊子『熱風』2024年3月号

『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が無事終了。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューした旅の記録が、5月末頃の予定で単行本化されます。発売までどうぞお楽しみに。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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