〔撮影:齋藤陽道〕

先日、新しいメガネを購入した。ひと月のあいだに二回、お釣りの硬貨を見間違えるという失敗をおかしてしまい、これはもうダメだと観念したのだ。
それまで使っていたメガネは、何回かフレームとレンズを交換しながら、二〇年以上同じ型のものを使用してきた。訊けばさすがに同じものは製造されていないという。レンズも前回変えたのがいつか、もう覚えてはいないが(少なくともTitleがオープンしてからは変えていない)、コーティングも剥げかかっていたから、潮時だったということなのだろう。
新しくできあがったメガネをかけると、これが遠くのほうまではっきりとよく見える。そのあとこれまでかけていたメガネに戻してみると、急に目の前に白い膜をかけられたかのように、世界が古ぼけて見えた。
これまで随分見逃していたものがあったに違いない。
その時ははっきり見えたというよろこびよりも、目の前に映っていた景色を疑いもせず、「これが世界なんだ」と思い込んでいたそれまでの自分に、危うさと恐れとを感じてしまった。
そのようなことを考えていたとき、レイモンド・カーヴァ―の代表作である、「大聖堂」という短篇小説を思い出した。以下、あらすじを少しだけ紹介してみる。
主人公の「私」の家に、妻の長年の友人である盲人のロバートがやってくる。「私」はそのことを面白く思っておらず、「目が見えないというのもうっとうしかった」。しかしソファーに並んでウィスキーを飲み、一緒にマリファナを吸ってテレビを見ているうち、二人は次第に打ち解けていく。
夜も更け、「私」はロバートから、テレビに映る大聖堂の姿を教えてほしいと頼まれた。彼は四苦八苦しながら、言葉だけで大聖堂のことを説明しようとする。そしてそのあと二人は手に手を重ね、一緒に大聖堂の絵を描くのだった……。
この話には、小さな〈赦し〉の感覚がある。最初盲人に偏見のあった「私」は、自分とは違うものを受け容れる寛容さがなかった。しかし、彼はただ知らなかっただけなのだ。ロバートという男について、そして目が見えないという痛みに関しても……。
ロバートの見ている世界を自らの手でなぞったとき、彼が赦したのはロバートのみならず、思い込みを捨てられなかったそれまでの自分自身でもあったのだろう。

思えば誰かに対するわだかまりとは、多くの場合、その人のことをよく知らないということに起因する。主人公の「私」と同じように、わたしたちには多くのものが〈見えていない〉のだ。
以前勤めていた職場では、頻繁に本の出張販売を行っていたが、あるイベントの際、販売応援にやってきたのがNだった。
彼のことはわたしを含め、職場の皆が遠巻きにして眺めていた。手が空いたらすぐ他のアルバイトの女性に話しかけ、勝手にレジから離れてしまう。髪は少し脱色しており、職場の上層部の人間からは睨まれていた。彼にはその場にそぐわない雰囲気があった。何というか、軽かったのだ。
Nはちゃんとやるのだろうか……。
そんなこちらの心配をよそに、実際の彼の仕事ぶりはテキパキとしたものだった。本の値段を確認し、お金をコインケースに入れると、頼んでもいないのに辺りにいる人に声をかけはじめた。
〇〇先生の本、こちらで販売してます!
休憩時間中、Nは自分のことを屈託なく話してくれた。彼のお父さんがこのアルバイトを見つけ、彼に勧めてくれたこと。でもお父さんのことはそんなに好きではなく、本はマンガしか読まないこと。
「ここのアルバイトは好きだけど、少し堅いと思います」
わたしもそれを聞いて笑った。NにはNなりの、職場の見方があるのだ。
「まあ、確かに堅いよね」
休憩時間のあとは、お互いもう少し打ち解けた空気で仕事をした。
それ以降、Nがいるフロアを通りかかったとき、わたしは以前よりもわだかまりなく、彼を見ることができるようになった。わたしはNのことを少しだけ知り、いつの間にか彼を赦していたのだ。
そんなNだったが、気がつけばその姿を店で見かけることはなくなった。フロアの人に聞くと、以前からやりたかった仕事に空きが出て、少し前に辞めたのだという。
いったい、何の仕事なんでしょうね。
それを聞いてわたしは残念に思ったが、彼のことをよく思っていなかった店の上司は、少しほっとした様子だった。
今回のおすすめ本

『AHIRU LIFE.』SANAE FUJITA よはく舎
気どらず、素朴でいることを易々とやってのけるアヒルたち。それはいまの世界でほんとうに尊いことだから、わたしたちは彼らに心を許してしまうのだろう。1巻と2巻が発売中です。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2026年1月10日(土)~ 2026年2月2日(月) Title2階ギャラリー
本屋Titleは、2026年1月10日に10周年を迎えました。同日より2階のギャラリーでは、それを記念した展示「本のある風景」を開催。店にゆかりのある十名の作家に「本のある風景」という言葉から連想する作品を描いていただきました。それぞれの個性が表れた作品は販売も行います。本のある空間で、様々に描かれた〈本〉をご堪能ください。
【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売中です】
本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えました。この度10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になりました。
各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。
Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
■書誌情報
『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』
Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】NEW!!
養生としての〈わたし〉語り|〈わたし〉になるための読書(8)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は、話すこと、そしてそれを通じて自分自身を考えさせられる3冊の本を紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

本屋Title10周年記念展「本のある風景」











