
先日、西荻窪の松庵文庫に伺い、店内にある本の入れ替え作業を行った。松庵文庫は築八十年以上になる古民家をリノベーションしたカフェ。通された二階は幾つかの部屋に分かれており、イベントも行えるスペースになっている。その黒光りする木の床にところ狭しと本を積み上げ、オーナーの岡崎友美さんと一緒に在庫の検品を行った。
どんな店にあっても、長いあいだそこに置かれた本は、それだけで少しくたびれて見えるものだ。検品しているあいだには、帯が破れたままずり上がり、カバーと本体とがもはや一体化している本もあった。そうした本が見つかった時には、いったん本に付いているものをすべて取り外し、もう一度自分の手で付け替えをしてやる。
例えばカバーや帯は曲がっているところを平らにし、軽く空気が入るようにしてかけなおす。スリップは先端にハリが出るようにピンと伸ばし、読者ハガキと一緒に本の後ろに挟みこむ。本についた汚れがあれば、消しゴムでやさしく叩くように落としてやればよい(強くこすると紙自体を削り取ってしまう)。そのあと机の上で二三度トントンとすれば、先までしょんぼりしぼんだように見えた本が、それだけでもう一度息が吹き込まれたように見えるから不思議だ。
そうしたことは、すべて自分が店を続けるあいだに覚えたことだ。最初本屋に消しゴムが必要であるとは思いもしなかったが、これがいまでは、なくてはならない道具のひとつになっている。
その日は午前中から蒸し蒸しとして、暑い一日だった。しかし古い建物の中は風通しもよくて、建物の手入れのこと、前の持ち主だった老婦人の話、お客さんから寄贈された本についてなど、作業の手を止めることなく、普段しない話を岡崎さんから聞くことは楽しかった。
「これから少しずつ、この店も変えていきたいと思っているんです」
この二三年のコロナ禍の状況は、店を開いている多くの人に、このままではいられないという決断を強いた。その大小に関わらず、それぞれの個人の中で、この間ふるいにかけられたものがあったと思う。そうして守り抜いたものから、我々はまたはじめなければならないのだろう。
長い作業が終わったあとは、気持ちのコリがほぐれたような爽快な気分になった。
子どものころ、親戚の家の庭で大型犬に尻を噛まれ泣いていたとき、母が両手でわたしのほっぺたを挟み、こう言った。
強い子やな。もう大丈夫。
その時の、母の手の感触はいまでも覚えているが、手で触れるという行為には、その人が思っている以上に何かを伝える力があるのだろう。そしてその励ます力は、直接ではなくても、モノを通してでさえ伝わっていくもののように思う。
さて、書店におけるそうした〈魔法の手〉とは、従業員の手のことである。「さわると売れる」といった書店員のあいだではよく知られたジンクスがある通り、そこにある本に命を吹き込むのは、働いている人の手にほかならない。
店内を整理していると、棚の隅っこなどあまり人の手に触れられていない箇所に、澱みを感じる時がある。そんな時は、その棚に並んだ背表紙の書名を目で追いかけ、並びを少しだけ変えてみるようにする。触られていなかった本を抜き出し、今度は新しい場所に戻してやるだけで、先ほどまでの澱みは解消し、人の手の入った痕跡が残るのだ。よく「手仕事のあたたかみ」といった言い方をするが、それはモノを作る手はもちろん、それを並べる手にも宿っているものなのだろう。
紙風船を膨らませるように、自分の手でくたびれてしまった本に触ること。それはそこで働く人にとってはあまりにもありふれた、自然な動きに違いない。そうした仕事は何か見返りがあるから行うのではなく、その場がその場であるための、店の尊厳にかかわる行為なのである。
今回のおすすめ本
なぜそれを美しいと思うのか。装丁家が娘と交わした13の対話。子どもをひとりの〈個〉として接している関係が、読んでいていいなと思ってしまう。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2022年8月6日(土)~ 2022年8月23日(火) Title2階ギャラリー
校正者・牟田都子さんの初めての単著『文にあたる』(亜紀書房)の出版記念展。校正とは「本や雑誌が出版される前に、『ゲラ(校正刷り)』と呼ばれる試し刷りを読み、内容の誤りを直し、不足な点を補ったりすること」。牟田さんは書店や図書館を巡っては資料を集め、ファクトチェックをし、一文字一文字を見逃さないようにして読み込みます。今回の展示では『文にあたる』で紹介する校正の仕事現場を再現。校正ゲラを広げる「見台」や辞書、文房具などの仕事道具や、『文にあたる』著者校正ゲラの実物の一部を展示します。
◯『すばる』で新連載が始まりました
連載タイトルは「読み終わることのない日々」。本の一節から自由に想起したエッセイです。『すばる』4月号(毎月6日発売)からスタート。どうぞお楽しみに。
◯【書評】
[New!]
こまくさWeb
〈わたし〉の小さな声で歌おう~榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』に寄せて /評:辻山良雄
「波」2022年6月号
『やりなおし世界文学』津村記久子(新潮社)/止まらない「本の話」 評:辻山良雄
見よ、これがブレイディみかこだ―― 評: 辻山良雄
『ジンセイハ、オンガクデアル――LIFE IS MUSIC』ブレイディみかこ(ちくま文庫)
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。