
野鳥が鳴いている声が窓の外から聞こえている。えんえんえんえん鳴いている。
耳を澄ます。他に音は聞こえない。ただただ鳥が鳴いている。
山の中に引っ越して良かったなと思うのは、目に映るもの、耳に届くものがみんな美しいことだ。美しいものの中に身を浸し、どうにかこうにか心を平穏に保っている。
前回、映画界における性加害が問題になっていることをこのエッセイで書いた。それからひと月が経って、わたしはこれを書いている。
時間は様々な問題を解決してくれただろうか。
戦争も疫病も差別も女性蔑視もなくなっていない。性加害に声をあげた被害者たちの心の安全も保証されぬままだ。
それでも少しずつ前へ進んでいる。本当に少しずつだけれど。被害者たちの相談を受け付ける団体がいくつか出来たし、有志の監督たちの声掛けにより、大手映画会社が連名で性加害やパワーハラスメントを容認しないという声明文を出した。ただ文章が出されただけではあるけれど、これから加害しうる可能性がある監督たちを監視し、抑制する効果はあるだろう。
でもこれで終わりじゃないし、満足なんかできない。今まで声をあげてくれた人たちはいまだないがしろにされたままだ。
そしてきっとこれからも、声をあげる人々が出てくる。
わたしたちはその人たちのために何をしていけばいいのだろうか。
そこまで考えてまた窓の外を見る。この美しい風景をせめて、みんなに見せてあげられたらいいのに、と思う。
先日、知人から連絡をもらった。
自分も告発することにした、と知人は言った。
それは、数年前に撮影現場で起きた出来事だった。その結果、知人は心を壊し、仕事をやめた。
知人には才能があった。少なくともわたしはそう思っていたし焦がれていたし惹かれていた。でも知人は映画をやめた。知人はその撮影現場で起こった加害とそれ以降の様々な映画界の人々との関りで、「映画にかかわる人々」への信頼を失ってしまったのだった。
知人の、告発しようという決意は大切にしたい。でも、告発したらもっとたくさん傷つけられてしまうんじゃないか。
わたしはそれが怖くて、その気持ちを知人に伝えた。特に性的なものが含まれるときに面白がって心無い揶揄をしてくる人たちの多さを、わたしも経験から知っている。
それでも知人の気持ちは変わらなかった。自分の告発でその後加害される人々が減るかもしれないことに賭けたいのだという。わたしは大変心が狭い人間なので「これから傷つくかもしれない人々」より、目の前の知人の心が傷つかないことばかり考えてしまう。なんで知らないやつらを救わなきゃいけないのさ、きみのほうが断然大切、なんて酷い言葉が口から出かかる。加害したやつらに復讐してやりたいというのだったら、わたしも全身全霊加勢するぜ、とアップを始めるのに。とはいえ、戦うなんて一番わたしの苦手とするところだけれど。
もうひとつ心配なのは、知人の心が、「加害者とその周囲の人の人生を変えてしまうかもしれない」ということに耐えられるだろうか、ということだ。「そんなことどうでもいい」と思えるような人だったら、もともと心を壊したりなんかしない。
電話の向こうで知人は泣いていた。というか、わたしのほうが先に泣いてしまっていた。そういうところ、わたしは本当に最悪だ。でも知人はわたしと話をする前に一体どれだけたくさん泣いたのか。何年も、どれだけたくさんの涙を流したのか。それをわたしは知りようがない。
その告発が本当に記事になるのかは、まだ分からない。話題性が認められなければきっとお蔵入りになるだろう。彼らは「映画界のため」や「被害者のため」に動いているわけではないのだから、それはそうだ。
わたしはまだ迷っている。知人の告発が世界に発信されるのを望むべきか。それによる知人の経験するだろう新しい悲しみを思うと、身動きが取れなくなる。
それでも、告発したいと思った知人の決意を尊ぶ。わたしにできるのは、知人に寄り添い、その言葉を受け止め信じ、知人の望む形で世界に広がる手助けをすることだけだ。
わたしたちに一番必要なのは寄り添う力だ。戦うことはできなくとも、寄り添うことはできるはず。
わたしはあなたの味方だ、そう伝え続けることを、やめないでいたい。
そしてきちんと怒りたい。人としてだけでなく一映画ファンとしても。わたしは知人の芝居が本当に好きだった。それをこれから先観る機会を奪われたことを。
最後に。
知人は「映画にかかわる人々」への信頼を失ってしまった、と先ほど書いた。その中にはわたしも、わたしが尊敬する素晴らしい映画人たちも含まれるのだろう。だからこそわたしたちは「いい人もいる」「しない人のほうが多い」なんて言葉に逃げずに、ちゃんと向き合わなきゃいけないのだ。
愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。