
妊娠がわかってから出産するまで、多くの時間を費やしたのが“名付け”である。
人の名前を知るのが、むかしから好きだった。サイン会に来てくれた読者の方のなかでも、好みの響きを持つ名前があれば記憶に刻むように何度か読み上げてみたり、街中で会話をしている人たちがいれば耳を澄まして「ふんふん、あの子がキミコで、あっちがマリか……」と名前と姿を一致させてみたり。タクシーにのれば、助手席前に貼ってある証明書で名前を確認して「お名前、難しい漢字ですね。なんて読むんですか?」と話しかけてまで知りたくなってしまう。
だれにでも名前はあるけど、名前を知っている、と、知っていない、には大きな差があって、名前を知った途端、彼らの存在が世界からポッと色付くような、あの感じが好きなのだ。街ですれ違っただけのあの人にも、さっき怒っていたあのおばさんにも、みんな違う名前がついていて、しかも自分一人で名付けたものではなく、必ず生まれた時の名は誰かがつけている……、と思うと、ほんのりあたたかな気持ちになってしまう。しかも、自由に名前をつけたにもかかわらず、それが公的なものとして受け入れられ、身内からも友人からも知らない人からも生きている間中ずっとその名で呼ばれるなんて、人間の営みってなんて特殊なんだろうか。
どんな名前も一様に素晴らしいけれど、一度も聞いたことがない珍しい名前に出会ったときは、さらに嬉しい。音海(おとみ)、涼花(りょうか)、日架(にちか)みたいに響き自体も珍しくて美しいものもあれば、里映と書いてりえとか、水結と書いてみゆみたいに、初めて見る漢字の組み合わせで成った名前も、日本語ならではの遊びがあって面白い。私自身の「さえり」という名前も気に入っている。ありふれていなくて、かと言って人を仰天させない程度に変わっている(と思う)。「さ」から始まるおかげで響きが吹き抜けるように爽やかで、その後に続く「えり」のすべらかな感じもいい。
名前って、なんて素敵なんだろう。この世に自分がいることの証明。人と自分を区別するもの。用意された自分だけの音。考えれば、「なまえ」という音の響きさえ甘美な気がしてくる。
と、名前が好きで好きで仕方がない私だからこそ、名付けを楽しみにしてきた。いつか子どもが生まれたときは、ちょうどよく個性的な名前をつけるぞとずっと思っていた。しかしそんな名前は、一朝一夕では思いつかないはずだから、と、高校生くらいから良い名前を思いついたらその都度メモをして生きてきた。ああ、用意周到、準備万端な私。これで名付けには困らない。
ただし、これには大きな落とし穴があった。
そう、考えていたのは、女の子の名前だけだったのだーー(女の子を産むって思っていたから……)。
男の子とわかってからは焦った。考えたことないし! 名前候補リスト所持してないし! という感じで、いや、よく考えれば子を宿す前からリストを所持しているほうが異常であるというご指摘はごもっともであるが、私としてはシンプルに参った。だって、一朝一夕で素敵な名付けはできぬ、そう、ローマは一日にして成らずである……。夫と一緒にどんな名前がいいか? と話して、互いに候補を挙げてみるも、修行が足りぬ身では「これぞ!」という名前になかなかたどり着かない(いや、それが普通か……)。
響きから考えてみたり、好きな漢字から考えてみたり、なにか物の名前を当ててみたり、想いから考えてみたり……。
ああでもない。こうでもない。この名前はどうだろう。あの名前はどうだろう。頭を悩ませ悩ませ、悩ませ続け……、ついには名付けが恐ろしくなってしまった。考えれば考えるほど、怖い。そう、私はいつの間にか、アマゾンの奥地ばりに深い深い名付けの迷路へと迷い込んでいたのだ。
考えすぎなのはわかっている。わかっているけど、たとえば「優しい人に育ってね」と「優人(ゆうと)」と名付けたら、何かの節目に「俺は名の通り、人に優しくしなければならない」と重荷に思ってしまったりしないだろうか、と不安になってきたのだ。「強(つよし)」なのに、全く強そうじゃなかったら「俺は強くない……」と必要以上に劣等感を持ってしまうだろうか。「世界に飛び出す人になってほしい!」と「世界(せかい)」と名前をつけたものの市役所で働きたくなったら、何も悪いことなどないのに「わりぃな母ちゃん」と思わせてしまうだろうか。「豪快(ごうかい)」と名付けても、慎重派かもしれない、「海(うみ)」と名付けても山派かもしれない……。
ああ、やっぱり生まれる前から名前を決めるなんて無茶な話なんじゃないだろうか。
名前は、ある程度まで生きたあとで自分の個性や特徴を言い表したものを当てがうのが道理ってものではないか。手長エビは、手が長いから手長エビなのであって、その名に恥じない姿の手長エビの立場からしても「俺は手長エビである!」と堂々と名乗れるであろう。もし手が短いのになにかの間違いで、または誰かの願望だけで手長エビと名付けられてしまったら「てへへ、あっしは手長エビ。まあ、手は短いんだが……」となんとなく恐縮しながら名乗る羽目になる。手長エビが証明したとおり(?)、この子はずいぶん優しい人だね、となってはじめて「優人」という名前をつけるべきではなかろうか。
第一、「親の想い」が子にとって迷惑にならないラインはどこなのだ。「二重って名前にします。二重まぶたになってほしいから!」などと、もしも身体的特徴の願いを名付けにする人がいれば非難殺到であろうが、「いつでもポジティブな人でいてほしいから、明人で」は問題ないのか? 親の願望なのか、親の願いなのか、子のことを考えているのかがおそらく境目となるのだろうし、「人に恵まれた人生でありますように、で恵子」「幸せが降り注ぎますように、で幸子」であれば、二重ちゃんとは違って、何の問題もないのはわかる。わかるんだけども、どこまでがアリで、どこまでが負担となる(可能性がある)のか、私自身がその境界をはっきりと理解しない限りは、想いを起点にした名付けをするのは危険かもしれないと思えてきた。
できれば、子自身に「どんな人生を歩みたい?」「響きは、何系が好き?」「こっちとこっちどっちがいい?」みたいなことをきちんとヒアリングしたい。念の為おなかに向かって聞いてみた。「今さ、候補があるんだよ。こっちと、こっち。どっちが好き? どんな人になりたいとかってある?」。お腹からは、なんの反応もなかった。おかしい。自分の名前を決めているところなのだから、もっと積極的に参加してほしい。いいね! と思ったらお腹を一度蹴る。いやだな! とおもったらお腹を二度蹴るとか、遺伝子に擦り込んでおいてほしいものである。
さらに昨今のアップデートされた価値観から考えれば、ジェンダーについても考慮すべきなのだろうか……? うまれてくるのは生物的には男であるが、彼自身が自分の性別をどう認識しているかはまだわからないのだから、もしかして「雄太郎」とか「一男」とか、いかにも男性らしい名前にしないほうがいいのだろうか? いや、しかし、正しいジェンダー観というのは、決して「どちらにも傾かないこと」ではなくて、性別にかかわらず自分らしく生きるというのが本筋であるはずで、だから名前をわざわざ中性的にすることだけが正しい配慮ではなく……むにゃむにゃごにょごにょ、と、いう具合に、あっちへ行けばこっちへぶつかり、むこうへ行けば新たな問いが生まれ、という具合に完全にゴールを見失っていった。
それにしても。
もし女の子を生むことになっていたら、きっとこんなこと悩みもしなかっただろう。私は夫の意見を無視したリストを手に、女の子っぽいかわいらしい名前をつけよう! とだけ考えて、周辺のあれこれになにひとつ配慮せずに突っ走ってしまったかもしれない。改めて名前について考える機会をくれたなんて、息子に感謝しなければならないな。
しかし、このままでは名前は決まらない。最近の子どもたちは、趣向を凝らした変わった名前が多いと聞くが、みんなどのように決めているのだろうか。2021年の「たまひよ名前ランキング」を見てみると「紬(つむぎ)」や「蓮(れん)」など漢字どおりの読み方をする名前はまだ想像できるが「陽葵(ひまり)」「陽翔(はると)」など、そんな漢字がどうやって思いつくのか、見当もつかない。冒頭に紹介した、響きすら珍しい「音海」「涼花」「日架」なんて、でんぐり返ししても出てきそうにない。「さえり」だって、どのように考えれば出てくるのか? だめだ、もうさえりジュニアにするしかない……と思い始めて数ヶ月たったころ、無事いくつかの方針が定まってきた。
方針のひとつは、できればこの世に存在する言葉や物の名前をそのまま(または含んだ名前を)付けたい、ということ。たとえばわたしたちの犬の名前は「月」だけれど、夫と付き合った当初からふたりとも月が好きで、一緒にいるときもいないときも、「今日の月、きれいだね」とやりとりを重ねてきた。月を見れば、あのやわらかな光で心が癒える。暗い夜道も、ほんのり明るくなる。どれだけ離れていても、見上げる人を繋いでくれるあたたかな月。だから、この名前を借りたい、と思った。もしいつか月が死んでしまっても、月が空に浮かぶ限りは、ずっと月のことを思い出せる。ずっと月が照らしてくれる。
……そんな風に、すでにある名前がいい(そうでなければ、無限に組み合わせることができる素敵な音の響きのなかから選ぶことができない……とも感じていた)。物の名前でなくても、言葉そのものでもいい。たとえば「綴(つづる)」とか「芽吹(めぶき)」とか「開(ひらく)」とか。
もうひとつの方針は、願いを込めすぎないことである。
願いが呪いになってしまうかもしれないと恐れてからは、考えすぎと言われても「~な子になってほしいから」という願望に由来して名前をつけるのは自分には向いていないのでは、と思うようになった。込めるのはあくまで言葉から連想するイメージにとどめたい。たとえば「ひらく」という言葉には、ドアを開けて新しい場所へ行くときの高揚する気分であったり、向こう側に広がる未知への期待であったり、迷いが開ける感覚であったり、とそういうイメージが付随しているから、そのイメージだけを手に、好きに解釈をしてくれていい、ということである。「みなも」もいいかもしれない。世界がきらきらと煌めく日には水面も光を帯びてどこまでも美しいが、どんより曇っている日は暗く濁って見える、みなも。どんな心で生きるかは自分次第だよ、と、そう捉えられるのではないか。
つづる、つむぐ、めぶき、ひらく、みなも、いぶき、あける……。
珍しすぎると人に揶揄されることがあるだろうか、バカにされたりするだろうか、おじいさんになったときに恥ずかしいだろうかと、彼自身がこのさき歩む人生にも想像力を膨らませてみるが、よくわからなくなってしまう。けれど、以前取材したことのある、いわゆる“キラキラネーム”の青年が、
「嫌だった時期もあったし、いちいち読み方を説明するのが面倒だと感じることもあったけれど、中学生ごろから一気に自分の名前が好きになったのは、モテたから。名前ひとつで話題が盛り上がって、すぐに覚えてもらえて、ウケが狙えて、いいことだらけだなぁと思った。悩んでいた時期にも、先生は素敵な名前だと言ってくれた。たぶん自分は周囲に恵まれていた」
と話していたことを思い出す。当たり前だけど、名前ひとつで人生が決まるわけではなくて、出会う人や、本人の性格や感受性、生きる力によって人生はつくられていく。おもえば、他人の名前を揶揄する人たちが非常識なだけ。出会うかどうかもわからないそんな人たちに配慮して揶揄されないよう細心の注意を払った名前をつけるよりは、揶揄してくる人は想像力が乏しく、あなたの人生で大事にすべき人は他にいるのだということを親としては教えたい。
どんな名前だっていいんだよね。
子どものことを考えながらつけたなら、それで。
誰でもわかりそうな当たり前なこと。それに、やっと、やっと、やっと私が辿り着いたちょうどその頃、息子が生まれてきた。予定日より2週間も早かったこともあって、まだ候補の中から絞りきれていなかったけれど、顔を見て、最後は拍子抜けするほどあっさりと名前が決まった。このご時世だから彼の名前は伏せておくけれど、すごく気に入っている。先に挙げたどの名前でもなく、やわらかくてあたたかくて、聞き馴染みはあるのに、名前としてはほんのすこしだけ珍しい。声に出すたびに、やさしい気持ちになれるような音で構成されていて、最後の音がちょこっと弾むような響きを持つところも前向きになれて良い。
わたしたちは気に入っているけれど、あなたはどう?
彼を呼ぶたびに、ちょっと顔色を伺うように、思う。
この名前を選ぶまでに、私は思考の旅をしたよ。あなたがどう生きたいかに想いを馳せ、どう言うかを想像し、自分が親としてあなたに介入しすぎていないかを考え、性別が異なる可能性も考え、誰かに笑われたりバカにされることがないかも考え、その思考をたどった先につけた名前がこれだよ。気に入らなかったらごめんね。でも、この道のりこそが、名前に込めた想いだよ。
最近、名前を呼ぶたびに、彼がこちらを振り向く。そうだよ。これが、あなたの名前だよ。私たちが死んでも、ずっと側にある、私たちの想いだよ。
あの人もあの人も、人は必ず名前を持っている。どんな名前だって、必ずその名前をつけるまでの道のりがあった。やっぱり、名前っていいものだな、と思う。
想像してたのと違うんですけど~母未満日記~

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