手を洗うのがやめられない、ガスの消し忘れが気になって家を出られない――50~100人に1人はかかる可能性がある精神疾患・強迫症(強迫性障害)。重度の強迫症を発症した精神科医・亀井士郎さんと、その主治医で強迫症治療の第一人者である松永寿人さんが共同執筆した『強迫症を治す 不安とこだわりからの解放』が刊行されました。強迫行為に苦しむ方とそのご家族、医療従事者のための決定版テキストである本書から、2回に分けて「はじめに」を公開する、前編です。記事の最後に刊行記念トークイベントのご案内があります。
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「本が崩れて、私の人生はおしまいです」
私は精神科医ですが、7年前に強迫症(強迫性障害)を発症し、その重症化まで経験しました。
あなたは「死のピタゴラスイッチ」をご存知でしょうか。
「ピタゴラスイッチ」とは、NHK教育テレビの名物番組のことです。この番組では毎回、ドミノ倒しに似た、精巧なからくり装置が実演されています。物体の運動が細やかに計算された上で成り立つ、驚きの連鎖反応――私もいつも楽しく視聴しています。
「死のピタゴラスイッチ」とは、それの“死”ヴァージョンです。全く楽しくない上に、現実には存在しません。にもかかわらず、この表現がしっくりくる現象が、当時の私の日常を支配していたのです。NHKには申し訳ありませんが。
在りし日の職場での話です。同僚は既に退勤しており、夜遅くまで残っていたのは私だけ。デスク上の本の山を前に、強烈な不安に頭を支配されていました。
――何かの拍子に、本が崩れたとしましょう。本の雪崩はイスにぶつかります。イスにはローラーが付いていて、コロコロと転がっていき、床の電源コードの上に乗り上げます。古くなっていたコードは、その衝撃で断線します。断線したコードから火花が散り、恐ろしいことに発火してしまいます。火は近くの埃やゴミに燃え広がり、建物は大火事になり、結果、多くの人が死んでしまいます。大惨事です。私のせいです。残念ながら、私の人生はここでおしまいです。さようなら。
これは当時の私の「強迫観念」、つまり想像の中の話です。もちろん、こんなピタゴラ現象は起こりません。理論的には確率ゼロとは言えないかもしれませんが、突然頭の上に隕石が落ちてくる確率と比べてどちらが高いか、いい勝負でしょう。
しかしながら、重度の強迫症状の渦中にあった私は、「あり得ない」と頭のどこかで分かっていながらも、同時に強烈な不安に支配され、本が崩れないように必死になって位置を調整し続けました。並べ直したり、安全そうな場所に移したり、色々な行動を取って絶対的な安心を得ようとしました。ですが、どうあがいてもピタゴラ装置は完成してしまいます。イスやコードを動かしても同じことです。何らかの形で火事につながるのです。
疲弊と緊張のあまり全身は汗だくでした。結局、私はこれらの「強迫行為」をどこかで諦め、終電に乗るために職場を後にしました。帰宅後もやはり不安は消えず、火事が本当に起こっていないか、ニュースを隅々まで確認しました。言うまでもなく、そんな事件は起こっていません。しかしそれでも安心はできないのです。ニュースを見落としていないか? あるいは次の瞬間報道されるのではないか? 考えだすとキリがありません。
誰かに相談しようにも、こんなバカバカしいこと、どう説明すればよいのでしょう。しかももう真夜中です。結局ほとんど眠れず、私ひとりで莫大な不安を抱えながら一夜を過ごしました。そして翌朝、当然のように職場は何事もなく平常運転なのでした。
これは強迫の日常のほんの一場面です。毎朝家を出るときにも、道を歩いているときにも、あるいは精神科医として患者の診察をしているときにも、私は似たような強迫観念に支配されていました。
言うなれば、「死のピタゴラスイッチ」に取り囲まれた生活です。
それは有り体に言って、地獄の日々でした。
地獄の日々から持ち帰った「知識」と「経験」
その後、私は本書の共著者である松永寿人の治療を受け、地獄から帰ってきました。もうほとんど症状はありません。今では精神科医としても、当事者としても、強迫症のスペシャリストを自任しています。
転んでもただでは起きぬ、ということで、私はかつての地獄から多くのものを持ち帰ってきました。それは掛け替えのない「知識」と「経験」の山です。ただし、そこには「怒り」という強い感情も伴っていました。
私は地獄へ続く道から、「強迫症の精神病理」を学びました。すなわち、強迫症という病気の症状は、どのように健康な心から地続きにあるのかを、身をもって理解したということです。
そして、地獄からの帰り道から、「強迫症の治療戦略」を獲得しました。どうすれば症状を改善でき、そして不安を封じ込めることができるのか。自身の病気を洞察する力としての「メタ認知」を手中に収め、病気を滅ぼすための方法論を会得しました。
さらに、強迫症の苦しみを知った私は、この病気の治療に難渋する患者が世の中にいまだ多く存在しているという事実に、改めて大きな「怒り」を覚えました。“治らない”病気なら、ここまでの感情は湧かなかったでしょう。しかしこの病気は“治る”可能性が十分にあるのです。適切な治療の道筋を辿ることさえできるのなら……。私はこのことを十二分に知っています。
これらの「知識」と「経験」と「怒り」は、私に本書を書かせる強い動機になりました。
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『強迫症を治す 不安とこだわりからの解放』の刊行を記念し、10月22日19時半から、亀井さんと松永さんによるトークイベント「手の汚れ・鍵のかけ忘れが気になって仕方がないことありますか?」を開催します。事前のご質問を受け付け中、アーカイブ視聴もできます。詳細・お申込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。
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強迫症を治す
積んでいる本の山が崩れて部屋が火事になるかもしれないから、何時間もかけて積み直す。ぶつかって人を線路に落として殺してしまうかもしれないから駅のホームを歩けない――精神科医の著者(亀井)は、強迫症(強迫性障害)を発症。強い不安やこだわりに苛【さいな】まれる地獄の日々を送るが、強迫症治療の第一人者(松永)と出会い、回復を遂げる。同じ症状に苦しみながら、治療を受ける機会もなく放置されている人たちを救いたい。その切なる思いで、強迫症の病理と治療をリアルかつ分かりやすく解説した決定版テキスト。