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2021.07.14 更新 ツイート

ユートピアを作り出す重層的な時制の魔術 矢部太郎『ぼくのお父さん』(新潮社) 中条省平

矢部太郎の『大家さんと僕』を初めて読んだときはびっくりしました。

 

読むことになったのは、手塚治虫文化賞の審査で、推薦する審査委員がいたからです。この賞の審査委員はみんな恐ろしいほどのマンガ好きで、批評眼が鋭く、その推薦作品はたいていの場合、優れたものなのです。

『大家さんと僕』も、驚くべき傑作でした。

「僕」は芸人の矢部太郎自身で、「大家さん」はかなり高齢のおばあさんです。

そのふたりが一軒家の2階と1階に暮らし、かみ合うような、かみ合わないような共同生活を続けるうちに、徐々に心の交流が進み、いつのまにか、たがいに無くてはならない存在になっていく、というゆっくりとした変化が描かれています。

実話であり、大家さんと「僕」の控えめな人間性がとてもうまく出ていて、じんわりと感動させられます。何より素晴らしいと思ったのは、「僕」の、自分を含めた人間に向けるまなざしに、距離感と温かさが絶妙なバランスで共存していることでした。

矢部太郎の今回の新作『ぼくのお父さん』でも、この人間を見つめるまなざしの、距離感と温かさの絶妙なバランスは健在でした。

「ぼくのお父さん」は絵本作家ですが、あまり仕事をせず、いつもぶらぶらして、子供たちと遊んでいる人です。世間的には変り者の部類に属するでしょう。そんなちょっと変わった「お父さん」の行動を、まだ幼い「ぼく」の目から描いています。

しかし、このマンガのオリジナルなところは、その、お父さんを眺める幼いぼくの気持ちを、現在の作者の視点から回想するという物語の枠組みをもっていることなのです。

「お父さん」の行動と、それを眺める「ぼく」の気持ちと、それを回想する作者の思いが重なりあって、単なる現実でもなく、子供の解釈でもなく、作者の思い出でもない、新たな、重層的なできごとの空間が生まれています。それがこのマンガの、現実を描きながら、現実ではない、どこかユートピアのような印象を作りだす秘密なのです。

ラストの20数ページはまるで魔術です。

それまで柔らかく美しいユートピアのようだった水彩画の過去から、突然画面がモノクロームになって、作者の現在へと滑りこんでいきます。そこで作者は、お父さんとお母さんがむかし書いたノートを読みはじめ、自分の知らない、さらなる過去の世界へと導かれるのです。

そこで作者は、この世界には、また、この世界の時間には、自分の知らないことが絶対的に存在し、それは自分の知っている世界よりもはるかに美しく、豊かで、貴重なのだ、という驚くべき発見をします。

作者は、その震えるほど感動的な発見をおおげさに言いたてることなく、ぼくもお父さんのように、ぼくなりのお父さんとぼくの話を描き、お父さんに見てもらおうと思います。その「お父さんとぼくの話」が、このマンガなのです。

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中条省平

1954年神奈川県生まれ。学習院大学フランス語圏文化学科教授。東大大学院博士課程修了。パリ大学文学博士。著書『中条省平は二度死ぬ!』『文章読本』など。翻訳書最新刊はロブ=グリエ『消しゴム』。

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