今回のマンガは、吉田貴司の『40歳になって考えた父親が40歳だった時のこと』(幻冬舎)です。
まさにタイトルどおり、父親とほとんど縁を切った著者が40歳になり、自分の息子が、かつて父親を嫌いで嫌いでたまらなかった10歳の自分と同じ齢になって、その10歳の息子が父親である自分をどう思うのか不安になり、自分と父親の関係を回想し、父親とは何だったのか、ということを考えるエッセーマンガです。
話としては、バブル時代からバブル崩壊にかけての1980~90年代の大阪が舞台で、タクシー運転手だった父親が、家に帰ってきて、酒を飲んでは妻に暴力をふるい、しかし、息子にはそれなりに愛情(というよりは淡い関心)を示すという、「涙と笑い」の連続です。
しかし、このマンガが不思議に面白いのは、主人公の息子がいくら考えても、父親という人物がまったく分からないことです。
家では酒を飲み、タバコを吸いながら、テレビを見るだけで、本も読まず、映画も見ず、友だちもいなければ、スポーツにも興味はなく、釣りは好きかもしれないが、息子を連れて近所の池に行くものの、休みに釣りに行くほどではない……。
ここまで読んで、私はふと自分の父親のことを思いだしたのです。私の父親は、ここまで極端ではないけれど、やはり、人間として本当に何を面白いと思っているのか、私には分からない気がしていました。
そして、自分の娘や息子ももしかしたらそうなのではないか? と。
だとしたら、このマンガはトンデモなく粗暴な特殊な親父を描いているように見えて、ある種の普遍的な寓話ではないだろうか。
とくに驚いたのは、筆者が父親にたまに地元の温泉に連れていってもらったときの話です。
父親は家族全員から、相手がどう思おうと自分がよければそれでいい、人の都合など考えない自分勝手な人間だから、友だちもみんな離れていく、と思われています。
ところが、息子と温泉に行ったときの父親は、温泉のイスはきれいに流してから使うんだぞとか、湯の出る蛇口は熱いので触ってはいかんとか、ちゃんと体を洗ってから湯舟に入るんだぞとか、まともな社会性を発揮するのです。
つまり、父親が働いている姿は息子には見えないが、外では父親は苦手な社会性を発揮して働いている。だが、生活のために働くことがつらすぎて、家に帰ったら、そうしたすべてを遮断して、自分勝手にしたい。そうして家族には全面的に甘えているのではないか、ということです。そして、程度の差はあれ、多くの父親はそんな家族関係を作っているのではないか。
本当のことは何も分かりませんが、作者はなんとなくそんな真実に触れるのです。
けっして一見複雑そうな話を分かりやすくまとめるのではなく、徐々に徐々に、すべての人間に正しい言い分があるという恐ろしい真実に近づいていきます。
そんな、つねに一歩引いて自分を含む人間の生き方を見つめる誠実さが、このマンガ独自の味わいだと思います。
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