
宇宙を今ある姿にしている4大定数の秘密を、NASA元研究員の小谷太郎氏がやさしく解説した『物理の4大定数 宇宙を支配するc,G,e,h』(幻冬舎新書)が発売となり、反響を呼んでいる。
発売を記念して連載時の人気記事を再公開。光速cがいまより遅い値なら、宇宙はどんな姿になっていただろうか。
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もしも光速が遅かったら、世界経済は大混乱に
宇宙でもっとも大事なことなので何度もいいますが、光速は299792458 m/s、およそ秒速30万kmです。
基礎物理定数のなかでもとりわけ安定・安心・信頼の定数で、誰がいつ、どんな運動をしながら測っても同じです。
光速の値なんて私たちは日頃意識せずに人生を送っていますが、その人生は光速がこのような値であるために成立しています。
もしも光速が違う値だったら、人生は全然異なるものになるでしょう。
たとえば明日からもしも、光速が30 m/s、つまり1000万分の1になったなら、世界はどう変わって見えるでしょうか。これはだいたい時速100 km、自動車や列車でもだせる速度です。
今日まで光は1秒に地球を7周半する速さでしたが、光速が1000万分の1になると、地球1周に15日かかります。
電波や光通信でアメリカに呼びかけて、返事がくるのに1週間くらいかかります。国際電話もオンライン・ゲームもできなくなるでしょう。
ニューヨーク市場の暴落は1週間経たないと東京市場に影響しません。世界経済は電報の登場以前の状況になるでしょう。

「相対論的100 m走」は走るうちに94 m走になる
では運動する物体には何が起きるでしょうか。
短距離走の選手は100 mを約10秒で走ります。これは明日から光速の3分の1の速度ということになります。この速度だと相対論の効果が現われます。計算してみると、その影響はだいたい6%です。
まずフィッツジェラルド=ローレンツ収縮のため、観客からすると選手の厚みは6%ほど薄くなります。静止時に30 cmなら、走っているときには28 cmに縮みます。(たいした違いではない気がします。)
スタート地点からゴールまでの距離は100 mのはずが、走っている選手にとっては6%短くなって94 mになります。(これは選手にとって無視できない違いでしょう。)
時間のゆっくり化のため、選手にとって走行時間は6%短くなります。観客と審判にとって10秒なら、選手の腕時計では9.4秒です。これは記録を左右する重大な違いに思えます。
しかし審判のストップウォッチはゆっくり化の影響を受けないので、9.4秒で新記録樹立にはなりません。選手が抗議してもだめでしょう。
体重100 kgの人は走ると106 kgに増える!?
ちょっとややこしいのが選手の体重です。相対論によると、運動エネルギーを与えられて走る物体の質量は増加します。
ということは、走る前には体重100 kgだった選手は走りだすと6%増えて106 kgになるのでしょうか。そしてゴールで止まると100 kgに戻るのでしょうか。

いえ、そうはなりません。
走る選手の体重がどう増減するかは、その運動エネルギーがどこから来たかによります。
選手が走るときの運動エネルギーの源は、選手が食べた朝食です。選手の体は炭水化物などを酸素と化合させる反応を利用して、筋肉の繊維を収縮させ、それによって走ります。
つまり、炭水化物などが持っていた化学エネルギーが運動エネルギーに変換されています。
そして6 kgの運動エネルギーを生みだすには、6 kgの化学エネルギーが必要です。
(化学エネルギーの一部は運動エネルギーにならずに、熱になって体外に捨てられたりしますが、それは考えないことにします。また、選手は呼吸も発汗もしないとします。)
するとどういうことになるかというと、走る前に100 kgだった選手(と体内の朝食)は、光速の3分の1で競技場を走っているときも、観客が体重測定してみると100 kgです。
そして走っているあいだ、体内の朝食が化学反応で二酸化炭素や水に変わります(が、計算の都合上、息や汗は止めてもらいます)。
この化学変化で化学エネルギーが減るため、選手と朝食の静止質量が減ります。選手が走りながら自分の体重を測ると、6%減って94 kgになっています。
そして選手がゴールして止まると、観客の測定と選手自身の測定は94 kgで一致します。さっきまで持っていた6 kg分の運動エネルギーは、止まるときの摩擦熱などで周囲に渡り、それによって体重が減ったのです。
(代わりに熱エネルギーを受けとって温められた周囲の地面や空気は質量が6 kg増えています。)
エネルギーは勝手に消えたり生まれたりしない
光に近い速度で運動すると質量が増えるといわれたのに、今度は減るといわれて、もしも混乱したらごめんなさい。
この事情は「エネルギー保存則」で説明されると納得できるかもしれません。(できないかたはスキップして結論へどうぞ。)
「保存」というのは物理学独特のとっつきにくい表現ですが、「勝手に消えたり生まれたりしない」という意味です。「エネルギー保存則」は「エネルギーが勝手に消えたり生まれたりしないルール」と読み替えてください。
(明日から光速が変わるというのは、本来ルール違反ですが、エネルギー保存則のような他の物理法則はできるだけ守ることにします。)
このエネルギー保存則というルールがあるため、選手は体の外からエネルギーを取り込まないかぎり、体のエネルギーは増えません。
エネルギーは質量と同じものなので、エネルギー保存則は質量保存則でもあります。
どういうことかというと、スタート前に選手の質量を観客が測定して100 kgならば、選手が走りだしても勝手に増えることはなく、やはり100 kgなのです。
相対論的な速度で運動する列車や乗客の質量が、出発前よりも増えるのは、列車外からエネルギーを注入されて加速した場合です。これなら与えられた分だけ質量が増えます。
選手は体内に入れた朝食の化学エネルギーを運動エネルギーに変えて走りだしますが、観客からすると選手の持つエネルギーは保存されるため、質量は変わりません。
止まるときには運動エネルギーを周囲に捨てるため、持っているエネルギーが減り、質量も減ります。
光速が1000万分の1だと、このとき減る質量が6%にもなるのです。

階段を5 m昇れば体重が6%減る「相対論的ダイエット」
結論ですが、あなたが体重の6%を減らすには、10 m/sで走ればいいということがわかります。
走った後に測ると、運動エネルギーが失われたぶんだけ体重が減っています。そのうえムダに失われた化学エネルギーもあるはずなので、体重は6%以上減るでしょう。
光速が30 m/sの宇宙では、エネルギーに等価な質量はかなり大きいです。そのため、ちょっとエネルギーが出入りするだけで質量が目に見えて増減します。
光速に無関係な豆知識ですが、競技場を10 m/sで走るときの運動エネルギーは、階段を5 m昇る位置エネルギーに等しいです。つまり1階から3階くらいまでです。
競技場をそんな速さで走るのはトップアスリートでないとむずかしいですが、階段を昇ることは筆者のような運動弱者にもできます。階段を5 m昇ったら、トップアスリートの疾走に匹敵する仕事をしたと思ってください。
したがって光速が1000万分の1の世界では、階段を5 m昇って降りるだけで、体内の化学エネルギーは体重の6%以上消費され、体重が少なくとも6%減ります。
このように、光速が遅い世界では(物理学的な意味でなく体を動かすほうの)運動の効果は覿面(てきめん)に現われます。これは相対論的ダイエットと呼んでいいのではないでしょうか。
ヒトの1日の消費カロリーは約2000 kcalで、これは国際単位系に換算すると800万Jです。(カロリーを廃止してエネルギーの単位をジュールに統一すれば、こういう計算も不要になるのですが。)
これをさらにE=mc2の関係をもちいて質量に換算すると、9トンほどになります。
つまり光速が30 m/sの世界では、生命を維持するためには毎日9トンの食事を摂らないといけません。

ただし9トンの食事は山のような体積の食事を意味しているわけではありません。
畑で日光を浴びて育った作物は、原料の二酸化炭素や水にくらべて、化学エネルギーの高い複雑な分子でできています。
作物がこの分子を作る際には、日光のエネルギーを化学エネルギーに変えて分子に封じ込めます。
この化学エネルギーのため、この分子1個は、私たちにおなじみの分子1個よりも大きな質量を持つことになります。
光速が遅い世界での、9トンの化学エネルギーを持つ食事は、体積や分子の個数で比べると、私たちの食事とあまり変わらないでしょう。
しかし、光速が遅い世界に私たちの知るような分子が果たして存在できるのでしょうか。順番に考えていきましょう。
もしも光速が遅かったら、太陽は凍りつく
作物が育つのに必要な日光は、太陽表面から放射される光です。
太陽や炭火や、近頃ほとんどみられなくなった白熱電球のフィラメントといった、温度を持つ不透明な物体からは、光が放射されます。
この放射は「黒体放射(こくたいほうしゃ)」と呼ばれますが、呼び名は覚えなくてもかまいません。温度が高いほどこの放射は強く明るくなります。

光速が1000万分の1になると、黒体放射の効率は100兆倍になります。
どうしてそうなるのかをごく簡単にいうと、光速が遅くなると光の波長が短くなり、すると放射をする物体の表面積が広くなったのと同じ効果を生むためです。物体の表面積が広くなると、放射の総量は多くなります。
放射の効率が高いとどうなるかというと、低温の物体も強くぎらぎら光って多量のエネルギーをまき散らすようになります。
私たちの太陽から放射されるエネルギーは3.86×1038 W(ワット)、すなわち386万Wの1京倍の1京倍というわけのわからないくらい膨大なものです。
これを放射する太陽の表面温度は5777 K(ケルビン)、つまり5500℃で、もうなにもかも融ける高温です。
ところが光速が1000万分の1になると、黒体放射の効率が高いため、太陽表面がこれほどの高温でなくても同じ量のエネルギーをぎらぎら放射できます。
計算すると、太陽表面は1.8 K、つまり-271.3℃に下がります。なにもかも凍りつく極低温です。
この極低温下では、太陽の主成分である水素はかちかちの固体になり、全元素中でもっとも凍りにくい物質のヘリウムも(ちょっと圧力が必要ですが)屈服して凍ります。つまり太陽も他の恒星も惑星も凍りつくでしょう。
黒体放射の効率が高いと、世の中の熱エネルギーのほとんどはこのように放射に使われてしまい、物体を温めるほうには分配されません。
光速が1000万分の1になると、宇宙は、凍りついた低温の物体がそこかしこに浮かび、その間の空間を光が満たす、清潔で寂しいところになるでしょう。

見知らぬ原子で作られる宇宙
光速の遅い世界に、低温であれ高温であれ、「物質」が本当に存在できるかどうかは、考察してみる必要があります。
存在するとしても、私たちの知っている原子や分子からなる物質とは違う物質になると思われます。
どうしてそうなるかというと、それは原子の成り立ちに理由があります。
私たちの知っている原子は、原子核というプラスの電荷を持つ粒を中心に、マイナスの電荷を持つ電子が周囲に集まってできています。
原子核と電子は電気力で引き合い、その力が原子の構造を決め、原子の構造が元素の化学的性質を定めています。
磁気力もまた、原子を形作る重要な要素です。原子を構成する電子はじっとせずにくるくる動きまわっていますが、くるくる動きまわる電子は1個の電磁石とみなせるからです。
電子どうしは電気力と磁気力によって複雑な力をおよぼしあい、それが原子の複雑な構造を作り、周期表にならぶ千差万別な元素の豊かな性質を生みだしているのです。

一方これまで説明していませんでしたが、光はまたの名を「電磁波」といい、電気的な性質と磁気的な性質を両方そなえています。
ここでは、明日から光速が1000万分の1になると仮定して、他の物理法則にはできるかぎり手を触れずに、世界にどんな変化が生じるか考えているわけですが、電磁気学の法則や物理定数をまったく変えずに光速を遅くすることはできません。
光速は電磁気学の物理定数の一つだからです。
そこで、電気力の法則か磁気力の法則か、少なくともどちらか一方に変更が必要になるのですが、ここでは磁気力をいじくることにしましょう。具体的には、「真空の透磁(とうじ)率」という物理定数を100兆倍にします。
(本連載ではのちほどもう一つの基礎物理定数である電子の電荷について話をするので、ここではストーリーの都合上、電子の電荷と電気力には変化がないことにします。)
すると、電子と電子の間にはたらく磁気力は100兆倍になります。これは、原子の中ではたらく電気力を圧倒する強さです。
原子の本来の構造は、メインの電気力と、それより弱い磁気力によって形作られています。
しかし圧倒的に強い磁気力は、この構造を根本的に変えてしまいます。
そうなったら、原子内部をくるくる周回する電子がどのような軌道をとるかは、磁気力によって決まるでしょう。原子のエネルギーも、安定性も、他の原子とどう結合するかも、すべて磁気力に支配されます。
現在の光速のもとでは、電子どうしは電気力で反発するので、結合することはありえません。しかし光速が1000万分の1になったら、いくつもの電子が磁気力によって結合する状態が生まれるでしょう。この世界にはない新しい「原子」の誕生です。
そんな新物質からなる環境は、どのような元素があり、どのような化合物がどのような反応をしているでしょうか。
これは予想することが大変むずかしいです。原子核と電子というごく単純な素材から作られたはずの原子が、元素ごとに多種多様な性質を示します。
この事実からは、新しい原子や元素の性質を予想することの困難さが「予想」できるでしょう。
けれども筆者の想像では、光速や磁気力が異なる世界もまた、多種多様な物質に満ちた豊かな世界という気がします。
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この連載が本になりました!『物理の4大定数 宇宙を支配するc,G,e,h』(小谷太郎氏著、幻冬舎新書)
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