
丸善福岡ビル店は、いまではもうなくなってしまった店だ(現在は丸善博多店としてJR博多シティで営業している)。以前勤めていた会社で福岡に転勤になったとき、この店にはお世話になった。他の書店を見ていいなと思うことはそれまでにもあったが、負けたと思いながらも尊敬の念を抱き、定期的に通いつめた店はここよりほかには思いつかない。
ミレニアムと呼ばれた2000年。この店に最初に足を踏み入れた時、その知的でクラシカルな雰囲気にすっかり魅了された。「丸善」というブランドをそれまで特に意識したことはなかったが、伝統というものの確かなよさが、その店にはまだ残っているように思えたのだ。店内の設えも少しはあったのだろう。しかしその空気は、主に書棚に並べられた本から発せられていた。
それが特に表れていたのが文芸書の棚だ。四六判の単行本は、同じ高さで整然と積み上げられ、そこから視線を上げると、棚の中には知らなかった出版社の本や名前だけは聞いたことのあった昔の名作が、最近出た新刊に混じり目に飛び込んでくる。
最初に訪れた時は、堀江敏幸の『郊外へ』を買って帰った。この著者の本を買うのはその時がはじめてだったが、本から呼びかけられたような気がして、文章の硬質な美しさもこの店で買う本としてはふさわしいもののように思われた。
『黄色い本』もまたこの店で買った本だ。まだ発売されたばかりのころだっただろうか、高野文子という名前も一緒に並べられていた『チボー家の人々』も当時はよく知らなかったが、それがよいものであることは自然と想像がついた。
文芸書を買うような気持ちで買って帰った『黄色い本』はひんやりとした読み心地で、これにも大変驚いた。だがその本はまだわたしには早かったのだろう、完全にはわからないまでも少し背伸びをして読む感じが、その本が置かれていた本棚を思い起こさせた。

その丸善福岡ビル店にいた徳永圭子さんとは、後日知り合うことになった。福岡で、名古屋で、大阪で……、これまで彼女とは様々な場所で会ったのだが、大体は酒の席だったから早口の博多弁でカラカラと笑っている姿がまずは思い浮かぶ。しかしふと真面目な顔に戻った時、伝統を受け継ぐ筋目の正しさがその人柄からはにじみ出ているようで、自己流で系統だった教育は受けてこなかったわたしなどはいつも恐縮してしまう。
出張で東京に来た時など、彼女はたまに店にも立ち寄ってくれるが、思えばいちばん最初にこの店に来た「お客さん」も徳永さんだった。まだ店を準備している頃で、外は冷たい小雨が降っていた。表の扉を叩く音がしたので振り返ると、彼女が笑って手を振っている。いるはずのない人がそこにいたので、わたしは思わずうろたえてしまった。
「いや、東京にきたからね」
彼女は短くそういって店内に入り、その頃やっと本が入りはじめた本棚を見渡した。まいったな(まだなんの整理もしていない)と思いながら、この店は彼女にはどう映るのだろうとわたしは心配していたのだが、そんなこちらの思いはよそに、彼女は本を買ってくれるという。
まだレジもつり銭の準備もなかった頃だったから、その時は自分の財布を開け、そこから小銭を返した。いい大人が二人、何か本屋さんごっこをしているみたいだ。
「お邪魔しました。じゃあまた」
そういって彼女は傘を差し、外に出ていった。内に秘めたものがある人だと思った。
今回のおすすめ本

谷川俊太郎の名作詩に、新たな息吹が吹き込まれた。一見すると表情が変わらない少年の顔に、読むものはうそをついたときの、チクチクする胸のいたみを感じ取ってしまう。これからも読み継がれるであろう、あたらしい絵本の誕生。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年11月28日(金)~ 2025年12月22日(月) Title2階ギャラリー
劇画家・バロン吉元が1971~72年に発表した代表作『昭和柔俠伝』(リイド社刊)の復刊を記念し、同作の原画のみを一堂に集めた初の原画展を開催します。物語の核となる名場面を厳選展示。バロン吉元はいかに時代を切り取り、そこに生きる人々の温度を紙にこめてきたのか……。印刷では伝わりきらない、いまだ筆致に息づく力を通して、原稿用紙の上で世界が立ち上がる軌跡を、原画で体感いただける機会となります。
◯2025年12月25日(木)~ 2026年1月8日(木) Title2階ギャラリー
毎年恒例の古本市が、今年もTitleに帰ってきました! Titleの2階に、中央線からは遠いお店からこの辺りではお馴染みの店まで、6店舗の古本屋さんが選りすぐりの本を持ち寄って、小さな古本市を開催します。10回目の今年は、新しい店も参加します! 掘り出しものが見つかると古本市、ぜひお立ち寄りください。
【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります】
本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えます。同日よりその10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります。
各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。
Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
■書誌情報
『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』
Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
心に熾火をともし続ける|〈わたし〉になるための読書(7)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
あらゆる環境が激しく、しかもよくない方向に変化しているように感じる世界の中で、本、そして文学の力を感じさせる2冊を、今回はご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。















