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本屋の時間

2020.05.01 公開 ポスト

第85回

些細すぎる記憶辻山良雄

大学生のころ同じサークルの仲間数人で、山梨県の金峰山(きんぷさん)に登った。金峰山は山を登る人からすれば難易度は中級クラス、朝テン場を出発し時おり雑談しながら何時間か樹林帯を歩くと、道は突然見晴らしのよい尾根に出る。そこから少し歩いた山頂ではフリーズドライの簡単なお昼を食べ、五丈岩と呼ばれた大岩で陽にあたりながら少し昼寝をして、下山した。まあありふれたといえばありふれた山行だったが、帰り道のことはよく覚えている。

 

山道が終わり車道に出たあと駐車場まで下ったが、風景に変化がある山道に比べると車道は退屈で、山を登ったあとでは足に疲れがくる。だるいなーとか言いながら横一列に並んで降りていると、一学年下のAが突然走りはじめた。

えっと思ったがみんな足早になって彼女を追いかけるとそのうちほかの誰かも走りはじめ、なぜかそこからは競争のようになった。ちょっと、足痛いって! なぜ走っているのかもわからないまま笑いながら数十メートル車道を駆け下り、ぜいぜい息を吐きながらみんな途中で座り込んでしまった。なんやねん、もう。みな笑うだけで何も言わなかったが、そのときAは真上に伸びている木を眺めていたので、わたしもつられてその方向を見たのだと思う。

それは花の季節が終わり木の芽や若い葉っぱが目に眩しいころだった。いまならそれが新緑というものだと理解しているが当時はまだそんなことも知らなくて、その葉っぱを通してこぼれ落ちる光にただ見とれているだけだった。

ああ、きれいですね。Aは言った。ほかの人もぼんやりとその木洩れ日を見つめていたと思う。うん……。ほかに何か言うべきことがありそうな気もしたが、Aが「きれい」といったからそれでこの場は充分なんじゃないかと思った。案外ことばにしなくても人は通じ合えるものなんだ。ずっとそこに座りこんでいるわけにもいかなかったから、しばらくすると誰からともなく立ちあがりまた歩きはじめた。誰も話すことはなかったが、誰かといることを先よりもはっきりと感じながら、わたしは歩いていた。
 

いま幸せな瞬間として思い出すのはこのときのことだ。それはわたしのなかではたまに思い出す記憶だが、あまりにも些細なことなのでそのことを覚えているのはおそらくわたし一人だろう(Aとは大学を卒業してからは会っておらず、変わっていなければいま福島にいる)。思えば誰かといることをあれほど自然に受け入れたのは、そのほかにはあまりなかったかもしれない。

どうやってあんな気持ちになれたのかはもう覚えていないが、みんなでいたから幸せに思えたのではなく、一人で満ち足りていながら誰かも同じように思っていたことがよかったのだと思う。わたしは〈ひとり〉を愛するもので自分でもずっとそう思って生きてきたが、誰かと関わっていなければその〈ひとり〉さえも充分に愛せなくなってしまうだろう。いまその誰かの不在を痛切に感じている。

 

今回のおすすめ本

『独り居の日記』メイ・サートン 武田尚子訳 みすず書房

若いころこの本を読んで、独り静かにいる時間の貴重さと、作家の中に渦巻く感情の激しさにうたれた記憶がある。アメリカ北東部、ニューイングランドの森で、詩作と読書、近所の友人との交流を通しながら、「独りでいること」の価値を見つめ直した、清冽な日記。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー

「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念

これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。


◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース

本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント

展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
 

【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト

◯【書評】

『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)

 

◯【お知らせ】

メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
 

シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。

 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。

偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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