
大学生のころ同じサークルの仲間数人で、山梨県の金峰山(きんぷさん)に登った。金峰山は山を登る人からすれば難易度は中級クラス、朝テン場を出発し時おり雑談しながら何時間か樹林帯を歩くと、道は突然見晴らしのよい尾根に出る。そこから少し歩いた山頂ではフリーズドライの簡単なお昼を食べ、五丈岩と呼ばれた大岩で陽にあたりながら少し昼寝をして、下山した。まあありふれたといえばありふれた山行だったが、帰り道のことはよく覚えている。
山道が終わり車道に出たあと駐車場まで下ったが、風景に変化がある山道に比べると車道は退屈で、山を登ったあとでは足に疲れがくる。だるいなーとか言いながら横一列に並んで降りていると、一学年下のAが突然走りはじめた。
えっと思ったがみんな足早になって彼女を追いかけるとそのうちほかの誰かも走りはじめ、なぜかそこからは競争のようになった。ちょっと、足痛いって! なぜ走っているのかもわからないまま笑いながら数十メートル車道を駆け下り、ぜいぜい息を吐きながらみんな途中で座り込んでしまった。なんやねん、もう。みな笑うだけで何も言わなかったが、そのときAは真上に伸びている木を眺めていたので、わたしもつられてその方向を見たのだと思う。
それは花の季節が終わり木の芽や若い葉っぱが目に眩しいころだった。いまならそれが新緑というものだと理解しているが当時はまだそんなことも知らなくて、その葉っぱを通してこぼれ落ちる光にただ見とれているだけだった。
ああ、きれいですね。Aは言った。ほかの人もぼんやりとその木洩れ日を見つめていたと思う。うん……。ほかに何か言うべきことがありそうな気もしたが、Aが「きれい」といったからそれでこの場は充分なんじゃないかと思った。案外ことばにしなくても人は通じ合えるものなんだ。ずっとそこに座りこんでいるわけにもいかなかったから、しばらくすると誰からともなく立ちあがりまた歩きはじめた。誰も話すことはなかったが、誰かといることを先よりもはっきりと感じながら、わたしは歩いていた。
いま幸せな瞬間として思い出すのはこのときのことだ。それはわたしのなかではたまに思い出す記憶だが、あまりにも些細なことなのでそのことを覚えているのはおそらくわたし一人だろう(Aとは大学を卒業してからは会っておらず、変わっていなければいま福島にいる)。思えば誰かといることをあれほど自然に受け入れたのは、そのほかにはあまりなかったかもしれない。
どうやってあんな気持ちになれたのかはもう覚えていないが、みんなでいたから幸せに思えたのではなく、一人で満ち足りていながら誰かも同じように思っていたことがよかったのだと思う。わたしは〈ひとり〉を愛するもので自分でもずっとそう思って生きてきたが、誰かと関わっていなければその〈ひとり〉さえも充分に愛せなくなってしまうだろう。いまその誰かの不在を痛切に感じている。
今回のおすすめ本
若いころこの本を読んで、独り静かにいる時間の貴重さと、作家の中に渦巻く感情の激しさにうたれた記憶がある。アメリカ北東部、ニューイングランドの森で、詩作と読書、近所の友人との交流を通しながら、「独りでいること」の価値を見つめ直した、清冽な日記。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年6月6日(金)~ 2025年6月24日(火)Title2階ギャラリー
きみまでのおさらい
井上奈奈『うさぎまでのおさらい』刊行記念展
2018年ドイツにて開催された「世界で最も美しい本コンクール」にて銀賞を受賞し、話題となった絵本『くままでのおさらい』。そのスピンオフ作品として制作された『うさぎまでのおさらい』が、このたび装いもあらたにビーナイスより刊行になります。今回の作品展では、この『うさぎまでのおさらい』『くままでのおさらい』とともに、2024年に刊行になったエッセイ集『絵本を建てる』の作品も展示します。
◯2025年6月28日(土)~ 2025年7月14日(月)Title2階ギャラリー
Titleからほど近い阿佐ヶ谷にあった、大正末期に建てられた文化住宅・旧近藤邸。そのたたずまいは宮﨑駿監督の著書『トトロの住む家』のなかでも取り上げられました。緑に包まれ、静かに時を刻んできたこの家の在りし日の姿を活写したのが、このたび刊行された公文健太郎さんの写真集『バラの花咲く家』(平凡社)です。旧近藤邸は残念ながら2009年に不審火で焼失してしまいましたが、美しい写真プリントで、多くのひとに愛されたその姿があざやかに蘇ります。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】NEW!!
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
「はたらき」を回復する /〈わたし〉になるための読書(5)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第5回。人の流動性が高まる春、さまざまな仕事とその周辺についての3冊をご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。