
心をざわつかせるニュースが多いこの頃。不安のなかで、することに追われ、どこか気が急いて仕方がなかったとしても、自分を取り戻す時間をみなさんがどこかで見つけられますように。
* * *
普通なら会計が終わればそのまま帰っていくところ、お客さんがその場にとどまっているというのは、何か伝えたいことがあるというサインだ。その人はまだ小学生にもならないお子さんを二人連れたお母さんで、仕事できたようにも見えなかったのでなんだろうと身構えたが、すこしの間のあと「とても落ち着きました。よい時間をありがとうございました」とだけ話し、子どもを促して帰っていった。
三人を見送りながら、知り合いのHが、自分のための本を買うのは何年かぶりだと話したときのことを思い出した。かつては地方のテレビ局に勤め、どちらかといえば映画の話が多かった彼女は、学生時代は本格的な社会科学の本や外国文学も手に取っていたので、そうした話を聞くのは意外でもあった。
やっぱり本はいいねと、Hは自分の買った何冊かの本をいとおしそうに撫で、最近は息子の絵本ばかりだからと続けた。そういえばこのまえは一緒にいた息子さんがいないなと思いながら、絵本にも色々あって見てると面白いでしょと話を振ってみたところ、「まあね、でも本は自分のために買いたいから」と笑った。
ちょっとコーヒーも飲んでくわとHはカフェに入っていった。その日は彼女のほかにお客さんはなく、しんとしたなか、一時間ほどしてカフェから出てきた彼女の顔にはすこし生気が戻ったようで、それはわたしが知っている彼女の姿でもあった。
休みの日にはできるだけゆっくりと、自転車のペダルをこぐ。通常であれば5分で行ける距離のところを、わざわざS字にふらふらと進んだり、途中で自転車を停めて写真を撮ったりと、意識的にその倍くらいの時間をかけるようにしている。そうすると同じ道を通っても、そういえばそうだったと、普段は見落としているものの存在に気がつく。
「自転車をゆっくりこぐ」なんて、ここでわざわざ書くほどのことではないかもしれない。しかしそのような目的をもたない小さな動きにも、自分の全体性を回復させるヒントが含まれているように思う。
本屋が自分を取り戻すために役に立つのであれば、その人には気のすむまでゆっくりと過ごしてほしい。解放されたHの微笑みには、見ているわたしも素直になる、自然な力があった。
今回のおすすめ本
屋久島に暮らし、個人の生きる実感から詩のことばを紡ぎ出した山尾三省。数多くの代表詩が収録された本書には、奇をてらうことのないことばのみが使われ、きっと心に響く一文が見つかると思う。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年7月18日(金)~ 2025年8月3日(日) Title2階ギャラリー
「花と動物の切り絵アルファベット」刊行記念 garden原画展
切り絵作家gardenの最新刊の切り絵原画展。この本は、切り絵を楽しむための作り方と切り絵図案を掲載した本で、花と動物のモチーフを用いて、5種類のアルファベットシリーズを制作しました。猫の着せ替えができる図案や額装用の繊細な図案を含めると、掲載図案は400点以上。本展では、gardenが制作したこれら400点の切り絵原画を展示・販売いたします(一部、非売品を含む)。愛らしい猫たちや動物たち、可憐な花をぜひご覧ください。
◯2025年8月15日(金)Title1階特設スペース 19時00分スタート
書物で世界をロマン化する――周縁の出版社〈共和国〉
『版元番外地 〈共和国〉樹立篇』(コトニ社)刊行記念 下平尾直トークイベント
2014年の創業後、どこかで見たことのある本とは一線を画し、骨太できばのある本をつくってきた出版社・共和国。その代表である下平尾直は何をよしとし、いったい何と闘っているのか。そして創業時に掲げた「書物で世界をロマン化する」という理念は、はたして果たされつつあるのか……。このイベントでは、そんな下平尾さんの編集姿勢や、会社を経営してみた雑感、いま思うことなどを、『版元番外地』を手掛かりとしながらざっくばらんにうかがいます。聞き手は来年十周年を迎え、荒廃した世界の中でまだ何とか立っている、Title店主・辻山良雄。この世界のセンパイに、色々聞いてみたいと思います。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】NEW!!
〈いま〉を〈いま〉のまま生きる /〈わたし〉になるための読書(6)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
今回は〈いま〉をキーワードにした2冊。〈意志〉の不確実性や〈利他〉の成り立ちに分け入る本、そして〈ケア〉についての概念を揺るがす挑戦的かつ寛容な本をご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。