
店の近くに「原っぱ公園」(正確には「桃井原っぱ公園」だが、正式名称で呼んでいる人を見たことはない)という、広い公園がある。店が休みの日の夕方など、近所の若いお母さんが子どもと遊んでいる姿をよく見かけるが、その脇を歩きながら、ふと遠くまできてしまったと思うことがある。
ローリング・ストーンズに「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」という曲がある。ある日の夕暮れどき、座っていたわたしは、子どもたちが笑いながら遊ぶのを眺めている。そのほほえみはわたしに向けられたものではないが、そこにある断絶から、わたしは自分に与えられた時間が限られたものであることを思い出す——
曲を知っているから目のまえの光景に心を動かされるのか、目のまえの光景から知っている曲を思い出すのかはわからないが(それは分かちがたいものだ)、その曲が流れてきた瞬間、感情につかまれないように、すぐにその場を立ち去った。
流れ去る時間をまえにして、人はあまりにも無力だ。人生をさかのぼってもう一度やり直す気にはなれないが、「そうあるべきだったのか」と自らに問う声は、どこまで逃げても影のようについてくる。目のまえで無心に遊ぶ子どもたちは、幸いにしてまだ、その声を聞くことはない。
先日発売になった『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』(イ・ギホ著、斎藤真理子=訳、亜紀書房刊)は、そうそう、こんな小説が読みたかったのだという短篇集。幾つかの話には作家本人を思わせる小説家が登場するが、彼らはみなそうありたい自分の理想を持ちながら、思うにまかせぬ現実にとまどい、翻弄されている。
誰かの苦しみを理解して書くのではなく、誰かの苦しみを眺めながら書く文章。僕はそんなのをいっぱい書いてきた。
「ハン・ジョンヒと僕」
目のまえの他人と、どれだけわかり合えることができるのか。それは作家である以前に、人間として彼に根差した問題意識のように思える。
なんだかひとごとではないと思い、著者であるイ・ギホの略歴を見ると、わたしと同じ72年生まれだった。ちょっと人生には慣れてきたけど、まだまだ予期せぬことでつまずいてしまう年齢。自分が思い描いていた生きかたは、いまのそれとはすこし違うのかもしれないけど、なんとかこのままやっていくしかない。作風はバラエティに富んでいるが、いい大人が途方にくれている姿が、最終的には心に残った(そんなシーンはなかったのかもしれないが)。
そういえば、店にくる小さな子どもと話すときは、いまでも顔がこわばってしまう。そのとき感じる、あのすこし足りない気持ちはなんなのだろう。
今回のおすすめ本
『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー 押野素子=訳 駒草出版
小説はつまるところ、その人の声である。差別と偏見にされされた怒りや悲しみは、この人物に〈声〉を与えた。ダークでスマート、刻みつけるような短篇の数々。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。