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2019.06.16 更新

#5 ふたりを引き裂いた魔物…涙なしには読めない恋愛物語河原れん

同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美は、その時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった……。北川景子主演で映画化もされた、河原れんのデビュー作『(またたき)』。読めば読むほどに引き込まれる物語の冒頭を、抜粋してお届けします。

*   *   *

(写真:iStock.com/AntonioGuillem)

雨は激しい吹き降りになっていた。

ずぶずぶに濡れ、体が冷え切って手足が震えた。

それでも、前にいる淳ちゃんは私の盾になってくれていた。

バイクは、私たちが通った高校の先を右折した。

広い競技場が見えてくる。さすがに、もう誰もいない。あのころ毎日通った道。アスファルトが黒く濡れて光っている。

二股に分かれた五つ目の信号を、バイクは車体を倒しながら左に折れた。通り慣れた抜け道は、舗装が悪くがたがたと揺れる。乗り心地は良くないけれど、この天気じゃわがままも言っていられない。

雨が一日を台無しにして悔しい。私は淳ちゃんの背中を見ながら、そう思った。

そのときだった。

右側から大きな光が私たちを照らした。

その魔物は、突然、本当に突然、姿を現した。

黄色い光を破って、なにかが向かってくる。

トラックだ。すさまじいブレーキの音を立てて、こちらへ迫ってくる。

眩しい。

ヘッドライトに思わず目を細めた。

それは一瞬、ほんの一瞬だった。

地面を叩きつける雨音が、止んだ。

体中を痛いほどの戦慄が貫いた。

時が止まり、目の前がスローモーションになる。

声が出なかった。

背中にかいた生暖かい汗が急に冷やされ、背すじが凍りつく。

胃がせり上がり、胸が締めつけられた。

その大きなものはもう、すぐ目の前まで来ている。

動けない。

私は目を強く閉じ、体を丸めた。

なにかが一斉に弾けたような大きな音が鳴り響いた。

地鳴りのような鈍い音が耳をつんざく。

私の足もとが崩れた。

体が宙に浮く。

音が消えた。

光も、なにもかもすべて。

私は、暗闇の中に閉じこめられた。

花は人の淋しさや哀しみを吸いこむと枯れてしまう、可憐で優しい生きもの。人が穏やかな心を持っているとき、花は美しく咲き、逆に苦しいときはしおれていく。かつて早紀さんがそう教えてくれた。

実際ここにいる花たちは、早紀さんの近くにいることを喜ぶかのように楚々と咲き誇り、その命を全うしているように見える。

その、早紀さんが集めた花が好きで、もちろん早紀さんという人が好きで花を買いに来る人が多い。しかしもっと不思議なのは、見るためだけに寄る人がけっして少なくないということだ。

私の母もそうだった。

毎日毎日、それこそ雨の日も風の日も、母はここへ花を見に来た。昼過ぎに夕飯の買い物ついでに足早に家を出て、この店でゆっくりと、まるで洋服を選ぶかのように花を見てまわった。

母は時々、まだ小さな私をここへ連れてきてくれた。そのたびに、端から端まで、外に並ぶ鉢植えもガラスケースの花々も、一つひとつゆっくりと眺めていた。あの花瓶にはこの花を飾りましょうとか、春が来たら冬の寒さを忘れさせてくれるようなぱっと明るい色の花を買いましょう、とささやきながら、家では見せることのない表情で目を輝かせていた。母にとっては忙しい主婦業の合間の、唯一安らげる時間だったのかもしれない。私は母の手を握り締め、そんな横顔を見上げているのが好きだった。

早紀さんはうっとりと眺めている母に、その名前や育て方、花言葉を教えながらいつまでも話をしていた。

母はなにも買わずに、今日もありがとうと言って帰ってくることがほとんどだったけれど、ほんのたまに小さな花や苗を買ってくることがあった。母いわく、花が買ってと言ったのだそうだ。そして、それは至福のときだと言っていた。

野放図に咲き乱れる庭の花も、母が丁寧に間引きをして植えたものだ。どちらかといえば構わない鷹揚な性格の人だけれど、こと花に関してはかすかな声を聴くように扱った。葉の弾力や根の張りを確かめ、爪が汚れても素手で土をならした。どんなに萎えて葉を下げた植物も、母にかかるとするすると息を吹き返した。

母は狭い庭にもいつでも花が咲いているように計算していた。梅が花を閉じれば、菜の花が咲き出し、すみれや沈丁花が終わると、昼顔がほころぶ。花が変われば、庭に漂う香りも変わる。左から右、右から左へと移り変わる庭の花々は四季そのものだった。

(写真:iStock.com/Manuta)

この店にこうして花を見るために来る人は母だけではなかったので、私はずっと花屋とはそういうところ、つまり小さな花博みたいなところだと思っていた。

そして、どうやら花屋というものは、世間一般では花を見にいくところではなく、買いにいくところだと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。けれど店に立つようになった今でも、売っているという感覚はほとんどない。花に情が移ることだってあるし、精魂こめて育てた花を手放すときには、心淋しい気持ちになったりもする。

それなのに、店に並んだ花々が、ここ最近目に見えて色褪せていく。頻繁に水替えをし栄養を足しても、張りを失い、しなびるように衰えていく。

仕事に戻ったのは、事故後一か月もたたないころだった。

家でじっとしているのが耐えられなかった。じっとしていると、あのときのことばかりが頭に浮かんで、しっかり押さえていないとずぶずぶとどこかへ沈んでいってしまいそうだった。そんな私のわがままを早紀さんは察してくれたのか、すぐに私を受け入れてくれた。

初めは疲れのせいでそう見えるだけだと思っていた。

しかし、前は一週間ぴんとまっすぐに咲いていた花たちが二日でしおれてしまう。早紀さんはそれでいい、大丈夫と言った。花は素直な生きもので、少しずつ私の哀しみを吸い取ってくれているのだから、ありがとうと感謝すればいいと。

だけど……。

こんな小さな生きものが、私の、たったひとりの人間の哀しみを吸い取って朽ちていくなんて……。

今日七つ目のブーケを作りながら、私は小さくため息をついた。今朝見た夢の名残りがまだ頭にこびりついている。

しとしとと肩を濡らす雨の音や、風の冷たさ。重く動かない足と、手に包んだあの赤い花の感触。

「泉美ちゃん、ごめんね。今日注文が立て込んじゃってて」

早紀さんが大きな花束を抱えて入ってきた。

店は朝から昼過ぎにかけてが一番忙しい。早朝に仕入れてきた花を注文に合わせて作り、家庭や店舗に配達に行く。

大した宣伝もしていないのに予約は日に日に増えている。そのほとんどがいわゆるお任せなので、それぞれの好みを考えながら色合いを決め、季節の香りを添える。決してらくではないけれど、それでも喜んでもらえたときは、本当にうれしい。

「ねえ、見て。これ綺麗でしょう。こっちが金木犀で、これが銀木犀。幹が動物の犀の肌に似てるから、木犀っていうんだって」

早紀さんが持っていた花束をうれしそうに掲げてみせると、甘い香りが鼻をかすめた。

犀の肌というには、ずいぶんかわいらしい花だった。

ここにいると、まだ暑さが続いている気がしても季節の訪れがはっきりとわかる。夏は終わり、もう秋になる。鮮やかな色の花が少なくなって、代わりに深い色の花が増えていく。

「角の和菓子屋さんまで届けてくるから。ごめん、店番しててくれるかな」

大丈夫です、ブーケの差し色にする花を選びながら顔を上げた。

「すぐ戻ってくるから。無理しないでね」

そう言い終わるか終わらないかのうちに、早紀さんは行ってしまった。

見送ろうと上げた手をぎこちなく戻し、カウンターに置かれたラジオのボリュームを少し上げた。

配達は本来ならば私がやるべき仕事だ。でも早紀さんは、ちゃんと体が治るまでと毎日走っている。

「たまにはね、お客さんのところで話すのもいいものよ」

そう言った早紀さんの顔は、私が母に手を引かれて来ていたころとほとんど変わっていない。肌も、髪も。

変わらないものと変わってしまうもの。

そこにある差はなんだろう。誰が決めるんだろう。

小さな赤いバラを生けながら、ふと思った。剪定バサミを斜めに入れて長さを揃え、棘を一つひとつ丹念に取っていく。

ガーネットというこの花は、一本に小ぶりな花をいくつも咲かせる。数十種ある赤バラの中でも、出まわることは少ないが、私がもっとも好きな品種のひとつだ。フリルになった花びらは厚みがあり、数本足すだけでブーケ全体を華やかに見せてくれる。

こんなに凛と強く咲いているバラの花も、少し水が濁っただけですぐに首を垂れてしまう。過敏なほど、儚い。

「痛っ」

思わず眉をしかめ、手を引き戻した。

熱いものが指のはらを走った。

棘が人差し指の先に刺さっている。棘が半分も見えなくなるほど深くめりこんでいた。

私は花を一旦水に挿して、棘を引き抜いた。

指先がじんじん熱い。この小さな花は自分を守ろうとしたのだろうか。

爪でぐっと押してみると傷口から濃く赤い血が流れ、床に落ち、ゆっくりと水をにじませた。

しばらく息をしていないと思ったのは、そのときだった。

棘が刺さってから呼吸をしていない。呼吸をしなければ。

でも、どうしたんだろう。動かない。目の前が乳白色に濁ってくる。

焦燥感に駆られて、思いきり息を吸いこんだ。何度も、何度も。けれど、絶え絶えの息を繋げようと吸えば吸うほど、頭は朦朧としてくる。

ラジオから流れる歌声が、遠くに聞こえる。穏やかなバラードにのせた、ハスキーな女性の声。

空中がゆらゆらと揺れ、旋回していた。白いもやがかかった視界が、しだいに狭まっていく。

どこからか、私を呼ぶ声が聞こえた。

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河原れん

1980年生まれ、東京都出身。上智大学法学部卒。大学卒業直前に小説に傾倒し、2007年、初の長編小説である『瞬』を発表。09年、谷村志穂原作『余命』の映画化の際には企画・脚本を担当。その他、翻訳や書籍プロデュースなど活動は多岐にわたる。

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