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2019.06.15 公開 ツイート

#4 最後の花火大会…涙なしには読めない恋愛物語 河原れん

同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美は、その時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった……。北川景子主演で映画化もされた、河原れんのデビュー作『(またたき)』。読めば読むほどに引き込まれる物語の冒頭を、抜粋してお届けします。

*   *   *

(写真:iStock.com/AlekZotoff)

店を出るとあまりの人の多さにたじろいでしまった。今年はいつもよりも多い気がした。駅の方からどんどん人が流れてくる。あと一時間もすれば、歩くこともままならないほどの大渋滞になるだろう。

ジーンズの後ろポケットに入れた携帯を取り出し、手早くメールを打った。

〈仕事、早く上がれたんだ。ラッキー〉

人波の中でかん高い笑い声や子どものはしゃぎ声がこだましている。色とりどりの浴衣を着た人たちがぞろぞろと通り過ぎていく。中には、すでに赤ら顔の人もいる。

軒を連ねる商店街に目をやると、店の隣の洋品店やこの辺りでは有名なそば屋は、もうとっくに店を閉めていた。

一分も待たないうちに、ポケットの携帯が震えた。

〈じゃあ、いつものとこで待ってる。急がなくていいよ〉

気分がひとりでに盛り上がっていく。

ごった返した道に出て、はす向かいの酒屋でラムネを二本買った。

待ち合わせた土手に行く近道は、この商店街を抜け、駅の向こう側に行く方向だ。つまり、この流れに逆行しなければならない。私は小さく気合いを入れて、ラムネの瓶をバトンにして飛ぶように駆け出した。

もみくちゃになった目抜き通りを、かんざしが落ちないように髪を押さえながら、足早に駆け抜ける。湿気をはらんだぬるい空気がまとわりつく。すでにTシャツの下にはじっとりと汗をかいていた。

幾重にも重なった人波を掻き分けて駅を抜け、線路を越えてまっすぐ進むと、川が目の前に現れた。

見慣れた、いつもの土手。それでも今日はやっぱり違って見える。

川岸のボート乗り場の横には屋台が出ていて、今日が書き入れ時と、店主が氷のプールに沈んだビールを売りさばいている。

淳ちゃんは、いつもの場所でいつもどおりに待っていた。バイクを横に停め、その下の板チョコの形をしたコンクリートの上にあぐらをかいて空を見上げていた。

なにがそんなにおかしかったのだろう。それがいつもここで私を待っていてくれるときの彼の姿なのに、そこだけ切り取られた絵みたいにひとりぼんやりしている後ろ姿が、どうしてかその日はとても滑稽に見えて、私は走りながら声を上げて笑った。

淳ちゃんはこちらを振り返ると、笑いながら髪を時々押さえつつ、ラムネの瓶を抱えて突進してくる私を見てぎょっとした顔をした。

彼のところにたどり着いたときには息が切れてしまって、声が出なかった。私は倒れるようにその体の上に崩れた。

「ランナーズハイ?」

私の背中をさすりながら淳ちゃんが言う。

息ができなくて答えられない。

「なんでそんな剣幕で走ってくるんだよ」

せっかく買ってきたラムネの瓶の中は白い泡でいっぱいになっていた。これでは飲める状態ではない。そう思っていたとき、淳ちゃんが一本を取り、手で力いっぱい瓶の上を叩いた。

ビー玉が瓶の中に落ち、泡があふれ出した。淳ちゃんはしたたる瓶を体から離し、逆さにして口をつけた。のどが大きく上下する。

私も、もう一本を彼の真似をして叩いてみた。ポンという軽快な音がしてビー玉が沈み、中身があふれ出す。気泡のかたまりが瓶を伝って、手の甲にまで流れて落ちた。

土手に横になり、一口分しか残らなかったラムネを飲み干した。手には甘い匂いが残っていた。

私たちは人混みからはずれたところに横になり、電話でしていた週末の予定の続きを話しはじめた。

空を見上げながら、のんびりと彼の話に耳を傾ける。土曜の方がすいてるけど、日曜日の方が海沿いは天気がいいらしい。淳ちゃんはそんなことを言っていたと思う。いつもの週末の話題だった。

ふと、二つ隣の橋の上に目をやると、薄灰色の雲が浮かんでいるのが見えた。淳ちゃんの声を聞きながら眺めていると、雲が少しずつ流されてくる。

朝あれだけ晴れていた空には、薄暗い雲がうっすらと立ちこめている。そして、あっという間に大きさを増し、真上にまで流れてきて、空を二層に分けるように青空を隠した。

「なぁ。秋になったらさ、どこか旅行にいってみない?」

雲の隙間から顔を出す青い層を見上げながら、淳ちゃんは言った。

「……旅行って、どこ?」

唐突な提案に少し驚いて、彼の方に顔を向けた。私たちはまだ二人で旅に出たことがなかった。学生のころからずっと一緒にいたからかもしれない。近場で過ごすことが当たり前になっていて、遠出をするといっても、バイクで行ける範囲だった。

淳ちゃんは視線をさまよわせたあと、ぼそりと言った。

「出雲」

「……ん?」

出雲に行きたい。淳ちゃんは、そう繰り返した。

その地名は、彼から何度か聞いたことがあった。幼ないころ住んでいたという場所だ。けれど、いまいち場所が、その位置がわからない。私の頭に、腰から下をなくした馬の形をしたあやふやな日本列島が頭に浮かんだ。

「出雲って、どこだっけ?」

「島根」

「どうして?」

間髪を入れずに訊いた。

「出雲でもさ、十一月になると、こんなふうに祭りがあるんだ。日本中の神様が旧暦の十月に出雲に集まるっていういわれがあってさ。田舎の町なのに、人がめちゃくちゃ集まって、急ににぎやかになるんだ」

うんでもふぅんでも感嘆でもない、曖昧な音で私は答えた。旅に出られるのは、その提案自体はうれしかったけれど、初めての旅行にしては、正直地味すぎる気がした。

空を映した水面が鈍色に染まっていた。

彼のそういう、一風変わった趣味を理解していたつもりでいたが、やっぱりはかり知れないなと、そのとき思った。

(写真:iStock.com/Mr_Twister)

私たちはしばらくなにも言わず、だんだんと陰っていく空を見ていた。土手には、さっきよりも人が多く集まり、橋の上まで見物客で混み合っている。

「雨」

突然、淳ちゃんは目を開いたままぽつりと呟いた。その声に顔を上げると、雲の中からこぼれたしずくが垂直に落ちてきた。

「天気予報じゃ、今日は晴れって言ってたのに」

通り雨かな。私は薄暗い空を睨んだ。雨粒がしだいに強く大きくなって降りはじめた。

「急ごう」

淳ちゃんはそう言うと、力いっぱい足を振って立ち上がり、私のヘルメットを投げ渡した。艶のあるオレンジの半球形のヘルメットは、彼が二年前の誕生日に買ってくれたものだ。左耳の上にはイニシャルのステッカーが貼ってある。

かんざしがつぶれないように下側から挿し直してストラップを締めると、いつものように彼がその紐を引っぱって確かめた。

バイクにまたがりキーをまわすと、エンジンが聞き慣れた低い音を出して回転した。その音がくぐもった唸るような音に変わると、淳ちゃんは前を向いたまま足をぐっと地面につけた。それがサインだ。私はできるだけ揺らさないように、慎重にその後ろに乗った。

雨あしが強くなっていた。

私は膝で淳ちゃんの腰を挟んだ。

「いい?」

「うん」

私が答える。淳ちゃんが右手のスロットルをぐっとまわした。バイクが唸るように発進した。

「淳ちゃん」

できるだけ彼の耳に近づくようにして言った。

「え?」

「雨……止むかな」

淳ちゃんは聞こえないというように首を傾げた。

ただでさえ風を切る音とエンジンの音で聞こえづらいのに、雨がまたそれを邪魔する。

「雨」

私は大きな声で言った。

「どうかな、わかんないよ」

そうだよね。でも……。

「浴衣……」

着られないのかな。思わず、ため息がもれた。

「え?」

淳ちゃんには聞こえない。今はだめだ、信号まで待とう。そう思った。

橋の上は人でごった返していた。そのまわりに雨宿りができるところなんてまずない。さっきまでの嬉々とした表情は消え、誰もが雨に濡れながら立ち往生していた。土手に進もうとする人と駅の方へ引き返そうとする人が、ぶつかり合うように入り混じっている。

橋の欄干にもたれている人、シートを頭にかぶり道路の縁石に座っている人……。

「本日予定されていました多摩川花火大会は、雨天のため延期いたします」

私たちも止まった。欄干のスピーカーに耳を向ける。

「繰り返します。本日予定されていた……」

声にならない失望を伝えようと、淳ちゃんにもたれかかり、肩にあごをのせた。触れた肌から彼の体温が伝わる。昔はそわそわと甘酸っぱく思えたこの感覚も、今では安堵の温もりに変わっていた。

「あーあ、楽しみにしてたのに……」

「残念だったな」

今度は聞こえたみたいだ。

「延期だってさ」

「うん」

私たちのバイクは、雨でびしょ濡れになっていた。

橋の上は騒然としている。肩を落とした見物客が、しぶしぶ駅へと引き返していくのが見える。

淳ちゃんは前を見据えたまま、私の膝をポンポンと二回軽く触った。それはいつも走っているときに、私がちゃんと乗っているかを確かめるサインだった。たぶん「大丈夫?」という意味だったのだと思う。

私はもう一度、彼の肩に顔をのせた。

どこからか出てきた警察官たちが一斉に交通規制を始め、歩行者を優先させるように指示を出していく。長く連なった車は、橋の先で詰まっていて、しばらく動きそうもない。

私は姿勢を戻し、彼の腰につかまった。

「うん。大丈夫」

淳ちゃんはヘルメットのカウルを下げバイクを発進させると、動かない車の脇を抜けていった。

私はあのとき、淳ちゃんの後ろでなにを思っていたのだろう。

この日のために買った浴衣と、早紀さんからもらったかんざし。思い描いていた楽しみが、急に取られてしまったような気がしていた。

関連書籍

河原れん『瞬』

同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美はその時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった。一瞬に秘められた愛の行方を瑞々しく綴る、珠玉の長篇小説。北川景子と岡田将生が共演の映画化の話題作。

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同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美は、その時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった……。北川景子主演で映画化もされた、河原れんのデビュー作『(またたき)』。読めば読むほどに引き込まれる物語の冒頭を、抜粋してお届けします。

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河原れん

1980年生まれ、東京都出身。上智大学法学部卒。大学卒業直前に小説に傾倒し、2007年、初の長編小説である『瞬』を発表。09年、谷村志穂原作『余命』の映画化の際には企画・脚本を担当。その他、翻訳や書籍プロデュースなど活動は多岐にわたる。

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