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2019.06.14 公開 ツイート

#3 愛し合うふたり…涙なしには読めない恋愛物語 河原れん

同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美は、その時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった……。北川景子主演で映画化もされた、河原れんのデビュー作『(またたき)』。読めば読むほどに引き込まれる物語の冒頭を、抜粋してお届けします。

*   *   *

(写真:iStock.com/maroke)

学校まで徒歩圏内に住んでいた私は、入学して半年も過ぎると、その距離に甘んじて遅刻ぎりぎりに登校する癖がついていた。その日、いつものようにバタバタと校舎へ駆けていくと、見たことのない生徒が涼しい顔で私を追い越していった。一瞬だけ横切ったその顔に誰? という疑問と妙に悔しさを感じて、無性に止めたい衝動に駆られた。けれど足を速めて追いかけてみても、その後ろ姿はどこにもいなくなっていた。

河野という名前の彼は、いつも傍らに本を持っていて、そしてそれはいつも少し古びたような本だった。その彼のことを好きになったのは、それからしばらくしてからのことだ。

ある日、彼は遅刻して、寝ぼけまなこで私のクラスの扉を開けた。先生が驚いた顔で振り返ると、それを見て彼は臆面もなく笑いはじめた。その声はなんだかカラカラとした不思議な音だった。なにを考えているんだろうと思った。なにを考えているのか知りたいと思った。

気がつくと、目が彼を追っていた。意志の強そうな鼻すじの通った横顔と、それに不似合いなのんびりとした後ろ姿。振り向いてほしいと祈り、けれど、彼の頭が少しでも動くと反射的に目を背けてしまう。平静を演じようと強張った頬とは裏腹に、心臓が破れんばかりに騒ぎだす。ならば、そのまま振り向かないでと浅はかな願いが通じれば、それはちくりと残る胸の痛みに変わった。

自信なんて、全くなかった。普通、恋が実る女の子はだいたい優等生と決まっている。だけど、商店街の花屋に就職がほぼ決まっていた私の成績は見栄を張っても中の下で、そのことが少なからず足枷になっていた。

彼はたぶん上の下くらい、らしかった。彼は特に文系科目を偏愛していた。美術が得意で、「特にアブラはすごい」と人づてに聞いた。

私は自分の自信のなさをつくろうために言い訳をはじめた。告白の仕方なんてわからない。体育館の裏や土手は使い古されていて気恥ずかしいし、そもそもなんて言ったらいいのか思いつかない、と。

そのことを親友の亜弥に言ったのが不覚だった。亜弥は胸の前で腕を組み、整った顔に不敵な笑みを浮かべると、口もとだけで、へぇ、と言った。とても真似できない横目線で私を見上げて。

噂はあっという間に広まり、私が彼を好きなのは学年中の周知の事実になってしまった。

私たちはいつしか暇な高校生たちの恰好の餌食になっていた。たまに廊下をすれ違うだけで好奇の視線を浴び、わざとらしい拍手を送られる。世間話の種に使われ、なかには結果を賭ける人もいた。なかなか進展を見せないのが、よけいにおもしろかったらしい。不機嫌な仏頂面で否定をすればするほど、まわりは盛り上がる。そんな日々が続いた。

けれど、まわりの期待に反して、私たちの関係は、進む気配を見せなかった。というより、言葉を交わしたことさえなかったのだ。あまりの変化のなさに彼らの話のネタもつき、次の対象を見つけるなり、あっさりと興味を失っていった。

移り気で飽きっぽい人たちのおかげで、事態もやっと収束を迎えたかに見えたある日のことだ。

眠気を誘うようなぽかぽかと暖かな日差しが入る教室で、机を並べ亜弥とまどろんでいると、後ろのドアががらりと開き彼が入ってきた。彼は教室を間違えたのではなく、まっすぐ私の前まで歩いてくると足を止め、なんのためらいもなく言った。

「ねえ、園田って俺が好きなの?」

私は呆然としてしまった。小学生だって、そんな直接的な訊き方はしないだろう。でも、彼はそういう人だった。ほかの人ができないことを平気でする。逆になんでもないことを不思議なくらい気にして憚った。偏屈といえば偏屈で、だけど気ままで正直な人だった。

「いいよ」

「……え?」

「だから、付き合ってもいいよって」

目眩がした。誰の差し金だ。だいたいどうして、今さら話を蒸し返したりするんだ。

うれしさではなく、突然の訪問を理解できず、そして恥ずかしさで体中の熱が噴き出しそうになった。

私は顔を俯かせ、両手の指先を絡めては解きながら返す言葉を探した。暑くもないのに汗が背中を伝った。

「……結構です」

口ごもってどうにか答えを吐き出し、真っ白になった頭を下げていると、しばらくして机の下の足の間から見えた彼の上履きが、ゆっくりともと来た方へ引き返していった。ゴム底がすれる乾いた音が教室に響いた。

顔を上げるともう彼はいなくて、代わりにいくつもの視線が私に注がれていた。

その晩は夜通し泣き続けるほど後悔したけれど、もうこれ以上冷やかしの対象になりたくなくて、つまらない意地を張り通した。

彼に本当の気持ちを伝えたのはそれから一年ほどたったあとで、まわりがとっくに忘れたころに、彼だってとっくに忘れたころに、私が備えていたありったけの勇気を振り絞って、あれは嘘でしたと謝ったのだ。使い古された、放課後の下駄箱の前で。

「俺もああいう言い方しかできなかったんだ。ごめん」

淳ちゃんはカラカラと笑って言った。

あれからずっとだから、私たちは六年一緒にいたことになる。私は花屋で仕事をはじめ、彼は八王子にある美大に入った。

週末を待ち望み、季節の移り変わりを見て、とりとめのないけんかもして……。

すぐ近くにいることも、毎晩電話をすることも、お互いの家を行き来することも、いつのまにか当たり前になっていた。

長かったけれど、つかの間の日々。

(写真:iStock.com/KalervoK)

「だからだめなんだよ」

電話の向こうで淳ちゃんが続ける。

「なにが?」

「校庭がゴムだったら、土があったかいのがわかんないじゃん」

あぁ、そのことか、と眠い目をこすって答える。

「ゴムでもあったかいよ。それに土埃も立たないし」

「もしかして、スプリンクラーとかもなかったわけ?」

なにを急に言いはじめたんだろう。体を少し起こして、時計を見上げる。時間を確認するとよけい眠たくなった。淳ちゃんはもごもごと説明を続けている。こうなると、しばらくは止まらない。私はかすれた声で相槌を返した。

私たちは、どうしようもないくらいつまらないことですぐむきになった。そうやってお互いの知らない部分を分けあいながら、距離を縮めようとしていたのだと思う。毎晩毎晩、飽きずに朝まで話していた。先にギブアップして寝てしまうのは、いつも私の方だった。

週末は久しぶりに遠出しよう。いつのまにか、話が変わっていた。淳ちゃんがどこか行ったことのある場所の話をしていた。横浜か江の島、海の方へ行こう。私はうつらうつらしながら、彼の声を聞いていた。

少しずつ、その声が遠のいていく。

ぼんやりと霞の向こうへ消えていく。

ねぇ、淳ちゃん。あの日はなんであんなに暑かったんだろう。

「ひゃっ」

冷たい水しぶきが足首に当たって、私は思わず声を上げた。振り返ると、早紀さんがバケツを片手で持って、いたずらそうな顔をして笑っている。

「足が浮いているわよ」

「え?」

「浮き足立ってるってこと」

ゆるいウエーブのかかった髪を後ろでひとつにまとめた早紀さんは、母と同世代とは思えないほど、なんともいえない色香がある。

――若いころにたくさん好きな人がいたの。

早紀さんは時々、武勇伝を聞かせてくれた。一筋縄ではいかない恋をしたこととか、いっとき結婚していた過去とか。結婚を恋愛のゴールだと思って嫁いだのに、そこに収まりきれずに目移りしてしまったこととか。

――でもね、みんな好きなのよ。だから困ってしまうんだけど。

それが早紀さんの悩みのひとつ、らしい。

店の外から、祭り囃子に混じって笑い声が聞こえてくる。

小気味良い下駄の音が時おり通り過ぎ、醤油の焦げるいい匂いが辺りに立ちこめている。駅前から続く商店街にはびっしりと出見世が並んでいて、向かいの店が見えないくらい人があふれていた。

お祭り女ではない私だって胸が騒ぐ。苦手な人混みでさえ、今日は許せる気がする。新しく買った浴衣に袖を通すと思うと待ちきれず、心が高ぶった。

今年も淳ちゃんが土手まで迎えに来てくれる。バイクで家まで送ってもらえば、浴衣を着付けても花火に間に合う。帯を締めるのに少し手間取るけれど、三十分もあれば着付けられるはずだ。頭の中で何度も繰り返した予行演習をもう一度思い浮かべる。

「いいわよ。もう上がって」

まだ五時だというのに早紀さんが言った。閉店時間をいつもより二時間早めて、六時に店を閉める予定ではいたけれど、まだ一時間もある。

「花火大会の日にお花買いにくる人なんていないでしょ」

「でも……」

私は店の外にちらりと目を向けた。

「淳一君、待ってるんでしょ」

早紀さんは眉を上げて言った。照れたように笑う私に、なにもかもお見通しという目で。小さなころから母に手を引かれて通っていたからか、それとも私がただ単純なだけなのか。

仕事なのだからとためらってはみたけれど、顔がどうしてもゆるんでしまう。

「ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します」

浮ついた足を押さえて、私は勢いよくお辞儀をした。

「ねえ、泉美ちゃん」

早紀さんは私を引き止めると、片手に持っていた小さな木箱を差し出した。私に? と自分を指さすと、早紀さんがその箱を手にのせてくれた。白桐の小箱だ。木のほんわりとした香りが鼻をくすぐった。

「開けてもいいですか」

早紀さんが笑みを浮かべて頷いた。

箱の中には、行儀よく白い和紙に包まれたかんざしが入っていた。蔓にみたてたピンの先に、チャームが二つ付いている。

「すずらん。泉美ちゃんに似合うと思って」

鏡の前に行き、エプロンを外して、Tシャツとジーンズ姿のままそのかんざしを髪に挿した。チャームが揺れて、小さな鈴の音がした。顔を少し振るたび、心地よい音が耳に響く。

「がんばってね」

早紀さんが鏡越しに言う。

真面目な顔でがんばってねなんて言われると、照れくさくてなんて言っていいのかわからなくて、私は鏡に向かったまま頷いた。

関連書籍

河原れん『瞬』

同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美はその時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった。一瞬に秘められた愛の行方を瑞々しく綴る、珠玉の長篇小説。北川景子と岡田将生が共演の映画化の話題作。

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同乗したバイクで事故に遭い、恋人・淳一を亡くした泉美は、その時の記憶をどうしても思い出すことができない。失われた「最期の記憶」を取り戻すため、泉美は弁護士の真希子に、事故の調査を依頼する。やがて明らかになる泉美の記憶。それは、心を射ぬくような苦しい真実であった……。北川景子主演で映画化もされた、河原れんのデビュー作『(またたき)』。読めば読むほどに引き込まれる物語の冒頭を、抜粋してお届けします。

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河原れん

1980年生まれ、東京都出身。上智大学法学部卒。大学卒業直前に小説に傾倒し、2007年、初の長編小説である『瞬』を発表。09年、谷村志穂原作『余命』の映画化の際には企画・脚本を担当。その他、翻訳や書籍プロデュースなど活動は多岐にわたる。

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