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恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる

2018.12.17 更新

恋には季節がある林伸次

忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』冒頭から毎週1本ずつお届けします。

たしかに存在した強い気持ちを世界に残しておこう

人はなぜ、バーテンダーに恋の話をするのだろう。バーテンダーは利害関係の外にいるから、あるいは多くの恋愛を見てきているから的確なアドバイスをくれることを期待してといったことがよく言われる。

でも、本当は特別な理由はない気がする。人はカウンターに座って、酒が入ったグラスを手にすると、なぜか目の前の酒を扱っている男に恋の話をしたくなるのだろう。

あなたは恋をしたことがあるだろうか。誰かのことを大好きだと思って真夜中に切なくなったことはあるだろうか。その気持ちが相手に伝わり、相手も自分のことを思っていて、心から抱きしめあったことはあるだろうか。

しかし、すべての恋はいつか消える。

あの恋はたしかにあったはずなのに、あの時、誰かのことを強く好きだと思った気持ちはたしかに存在したはずなのに、いつか消えてしまう。

私はそんな存在したはずの恋を書き留めて、この世界に残しておこうと思った。

*   *   *

東京、渋谷に、少しだけ涼しい風が吹き始めた九月の夕方、こんな日は『アーリー・オータム』がバーのBGMにぴったりだと思い、アニタ・オデイのレコードを取り出した。

「私は夢にも思わなかった、秋がこんなに早く訪れるなんて。あなたもそう思うでしょ。あまりにも早いって」

ハスキーボイスでちょっとはすっぱな印象のアニタ・オデイが堂々と歌いきる。

バーの中に秋の訪れを感じていると、扉が開いて、三十代前半くらいの女性が入ってきた。花柄の水色のワンピースの胸元は大きく開き、そこから見える白い肌が眩しい。切れ長の目とすっと通った鼻筋に、少し前の中国映画の女優のようなうちに秘めた華やかさがある。

「一人ですが」と彼女は落ち着いた声で言って、少し微笑んだ。

私が「どうぞ、お好きな席へ」と伝えると、一番入り口に近いカウンターの席に座った。

「お飲み物はどうされますか?」

「私、なんだか落ち込んでいて。心がときめくようなお酒が欲しいんですけど、そういうのってありますか?」

「それでは、最高の出会いという意味があるキールはどうでしょうか? 夏の終わりにちょうどいい気もします」

「キールって白ワインにカシスですよね。どうして最高の出会いという意味があるんですか?」

「昔、フランスのある街の市長が、地元のアリゴテという品種の白ワインをなんとかしておいしく飲ませたいと考えて、カシス・リキュールを混ぜて提供することを考案したんです。このアリゴテの白ワインの酸味やミネラル感とカシスの出会いがあまりにも素晴らしかったので、キールには最高の出会いという意味があるとされています」

「なるほど。じゃあそのキールをください」

私は細身のワイングラスにアリゴテ種の白ワインを注ぎ、冷蔵庫で冷やしてあるカシス・リキュールを足した。

そのキールを彼女の前に出すと、彼女は色を眺め、香りをとり、そっとグラスを口に運んだ。

「おいしい! これはたしかに最高の出会いですね。あらためて由来と意味を説明してもらうと、白ワインとカシスの組み合わせの素晴らしさがよくわかります。そうかあ、私も最初はきっとこんな風に良い出会いだったんだろうなあ」

「何かあったんですか?」

「マスター、聞いてもらえますか?」

「もちろんです」

「恋愛に季節があるってご存じですか?」

「恋愛に季節ですか?」

「そうなんです。じゃあ春から説明しますね。恋愛は春から始まります。

実は恋愛って、春が一番楽しいんです。

お互いが好きかどうかを、メールの文章を何度も読み直して、『やっぱり私のこと女として気にはなってるんだ』って確信したり、『渡さなきゃいけない物があるから』って理由があるフリして、わざわざどこかで会ったり、なにげないフリして【じゃあお礼にごはんでもどうですか?】ってメールしたりしますよね。

少しずつ距離を縮めていって、『もう絶対に私のことを好きなはず』って確信が出てきて、でもどうかなあってちょっと不安になって、でも彼が妙に近いなあって思ってたら、突然彼が手をつないできてドキッとしたり。あの感じすごく楽しいじゃないですか。一番苦しいし、一番楽しいんですよね。

恋愛の春の終わりはキスなんです。ドキドキが一番高まった時に彼がキスしてきて、それで恋愛の春が終わって夏が始まるんです。

二人だけの夜を経験して本格的に恋愛の夏が始まりますよね。マスター、相思相愛の恋人たちは一日の八十パーセントくらいの時間、相手のことを考えているって知ってましたか? ホント、そうなっちゃうんですよね。もう職場でも、友達とお茶を飲んでる時でもずっとずっと彼のことばかり考えてしまって、たぶん彼も私のことばっかり考えてくれてるはずなんです。それがすごくわかるから幸せなんです。

真夜中に突然、彼に会いたくなったりするのも夏の季節ならではです。メールで【会いたい】って送って、彼も【俺も会いたい】って送ってくれて、彼が私の家までタクシーで来てくれたりするじゃないですか。なんかすごい勢いでドアのところで抱きしめあって、そのままエッチしちゃって、その後で『お腹すいたね』とか言って、真夜中に近所のコンビニまで手をつないで行ったりして。楽しいんですよねえ。ほとんど病気なんです。彼と抱きしめあっているだけで気持ちいいっていうか、彼も私の抱きしめ方で気持ちが伝わるから本当に幸せなんです」

「わかります」

「でも、この間、突然、秋の風が吹いたんです。マスター、LINEの文章って、届いた時に、スマホの画面に一行だけ表示されるの知ってますか?」

「通知が来るんですよね」

「そう。その通知を見て、急ぎの用事じゃなければLINEを開いたりしないで、そのまんまにしちゃうんです。そしたら既読にならないから、相手にも『ああ、今、忙しいから携帯見れないんだなあ』って思われるので、ちょっと面倒くさい相手からのメッセージだと、そのまんま放置して既読にしないってよくあるんです」

「なるほど」

「最近、彼、それがたまにあるんです。以前はそんなこと絶対になかったのに。彼、どんなに忙しくても私のメッセージはすぐに見てくれて、すぐに返事をくれてたんです。それがここ最近、明らかに既読にしないで放置しているんだなってわかることがあるんです」

「本当に忙しくてスマホを見れないだけなのかもしれないですよ」

「いえ。そういうのってわかるんです。不思議ですよね。裏をとったわけじゃないんだけど、ああ、今、彼、既読にしてないだけで用件は伝わってるなってなぜかわかるんです」

「そうなんですか」

「この間、ついに既読になったのに返事がこないことがあったんです。その日、私は『あ、秋が始まった』って気がついちゃったんです」

「返事がこないことってそんなに大事件なんですか?」

「そうですね。普通じゃないです。というか、恋愛の春の頃は『急いで返信しちゃいけない』とかセーブする気持ちがあるんですけど、もう確実にどんなことがあっても返信するんです。

恋愛の夏の時はとにかくずっとずっとどっちが先だったかわからないくらい、連絡ばかりしちゃうんです。【好き】とか【何してるの?】とか【会いたい】とか【こんなの食べてる】とか、もうそんなことばかり送っちゃうんです。

返信がないってもうおかしいんです。スタンプでも【(笑)】でも何でも、言うことがなくても返すんです。というか返したいんです。だからもう秋なんだなって気づいたんです。

たぶんこれからちょっとずつ、やり取りが少なくなって、会うのも少なくなって、冬が来るんです。

マスター、恋愛に季節があるとして、その季節に逆戻りはあると思いますか?」

「そうですね。秋から夏や、夏から春には絶対に戻らないですよね。同じように、恋愛の季節も逆戻りしないかもしれませんね」

「じゃあ、季節が進むスピードをゆっくりさせるっていうのはできると思いますか?」

「それはできそうですね。ずっと気持ちを告げないで心が熱い状態で止めておいて春のままでいるとか、夏になってもそんなに会いすぎないとかはできそうです。

会いすぎてお互いのことを知りすぎて秘密がなくなっていくと、季節は早く過ぎ去っていくような気もします。

でも秋になると、冬はあっと言う間に目の前に来そうですね」

「マスター、恋愛の秋も楽しんだ方がいいんですよね」

「そうですね」

「秋も楽しんであげないと、私の恋愛がかわいそうですよね。あんなに春や夏を抱きしめたんだから、秋も冬も抱きしめます」

「いずれは消える、もうすぐ終わる、とわかっている恋でも、最後の輝きを見届けるのが、その恋を美しくする気がしますね」

「ああ、そう考えると、恋の秋や冬の季節も切なくていいものですね」

彼女はそう言うと、最高の出会いという意味のキールに口をつけた。後ろではアニタ・オデイが「秋が来るのがあまりにも早い。あなたもそう思うでしょ。あまりにも早いって」と歌っていた。

……続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。

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林伸次『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』

人はなぜバーテンダーに恋の話をするのだろう? cakesスタート以来、常に人気ナンバー1の恋愛エッセイの名手にして、渋谷のバー店主が綴るカウンターの向こうのラブストーリー 恋はいつか消えてしまう。ならば、せめて私が書き留めて、世界に残しておこう――。 スタンダードナンバーの音楽とお酒のエピソードとともに綴られるのは、 燃え上がる恋が次第に冷め、恋の秋がやってきたと嘆く女性。 1年間だけと決めた不倫の恋。 女優の卵を好きになった高校時代の初恋。 かつての彼女とよく通ったパン屋さんを訪ねた男性。 学生時代はモテた女性の後悔。 などなど、世界の片隅に存在した恋のカケラたち。 誰かを強く思った気持ちは、あのとき、たしかに存在したのだ。切なさの記憶溢れる恋愛小説。

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林伸次

1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDをオープン。選曲CD、CDライナー執筆多数。『カフェ&レストラン』(旭屋出版)、『cakes』で連載中。著書に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(ともにDU BOOKS)、『ちょっと困っている貴女へ バーのマスターからの47の返信』(アスペクト)、『ワイングラスの向こう側』(KADOKAWA)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)がある。

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