本の雑誌が選ぶ2026年度上半期ベストテン1位を獲得!
「本の雑誌が選ぶ2026年度上半期ベストテン」で1位に輝いた、砂村かいりさん『飛距離の長い青春』。
本の雑誌社の杉江由次さんにも、「読み出した時の予感を超える、人生を描いた傑作。砂村かいり、素晴らしい!」と大激賞をいただいた本作は、医学部を目指す三人の浪人生が主人公の物語です。

開業医の息子で、絶対に医者にならなければならない千浩。真面目で努力家、憧れの医者をまっすぐ目指す睦。なんとなく周りに流されて医学部を目指している耕平。そんな三人は、どのように現役時の受験を終えたのでしょうか。物語のプロローグをお届けします。
* * *
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山ほどのいいわけを用意しながら階下へ下りていったら、両親はもう予備校の手続きを始めていた。
ダイニングテーブルの上に、鮮やかな緑色が散っている。鳳緑予備校のテーマカラーである緑。母が先日ひとりで説明会へ行き持ち帰ってきた、パンフレットや書類の類だ。
胃袋が、ぎゅっとねじれる心地がする。
前期試験が終わった瞬間から続くこの痛みは、慣れるどころかますますひどくなってゆくばかりだ。
──本当に浪人するのか、僕。
「鳳緑でいいんだよね?」
僕の気配に気づいた母が書類から顔を上げて言った。確認というより、ただの報告だった。
「アドバンス医系コースって、選抜制でしょ。定員になっちゃう前に試験受けとかないとね」
あ、う、という声にならないかすれた音が、乾いた喉から漏れる。
「そんなにプレッシャーかけたつもりじゃなかったんだけどなあ」
目頭のあたりを指で揉みほぐすようにしながら、父が吐き出すように言う。つまり、僕が不合格だったのはプレッシャーに負けたせいだと結論づけているわけだ。
ずっしりと重たい空気が横たわる。居間の入口に立ち尽くしたまま、僕はうまく呼吸もできない。肺に酸素が取りこめない気がする。
プレッシャー云々と言うなら、父の病院の存在そのものがプレッシャーだ。
西東京のこの地で代々続く高川医院を、地元で知らない人間はいない。僕か妹の琴梨が継がなければ、遠くない未来に途絶えてしまう。
だから、頑張ったのに。好きなことたちに背を向け、娯楽のほとんどを封印し、苦手な理系科目に力を注いだのに。化学も物理も生物も、本当はちっとも好きじゃない。日本史で受験したかった。文学部史学科や、社会学部の歴史系コースを目指したかった。
「……まだ、後期が……」
結局、自分で沈黙を破った。そう、まだ後期試験がある。まだ僕の医学部受験は終わったわけじゃない。浪人すると決まったわけじゃない。
しかし、母はハッと息を吐き出して薄く笑った。
「後期ったって、どうせ本当にY大行くわけじゃないでしょ? それとも千浩、山梨でひとり暮らしする気?」
興奮すると畳みかけるように話す母は、反論するだけ無駄というおなじみの諦念を僕に与える。

医学部へ行くのが必須事項、国公立であるのが大前提、T医科大でなければ意味がない。祖父の代から、それが我が家の決まりごとだ。
ふんと鼻を鳴らし、パンフレットをぽんとテーブルに放って、父がダイニングを出ていく。合格発表の時間に合わせて、わざわざ診察を抜けてきたのだ。看護師さんたちにはもう話してあるのだろうか、不出来な息子のことを。それともこれから話すのだろうか。
父の不機嫌がたっぷりと残されているダイニングに、母がかりかりと書類を埋めてゆく音が小さく響く。
「だーいじょうぶだよ、お兄ちゃん」
テーブルの端に座っていた琴梨が、煎餅をばりばり食べながら笑って言った。軽さを心がけすぎて、芝居がかった変な声音になっている。
「医学部なんて一浪二浪あたりまえなんだから。あと一年頑張って、あたしと一緒に大学生になればいいじゃん。一緒に一年間受験生やろうよ、ねっ」
あと一年──。
目の前が暗くなる。諸々の手続き、そしてはてしない受験勉強。あれをまた、一から始めるのか。
あと一年頑張れば、僕は光をつかめるのだろうか。
両親に微笑んでもらえるのだろうか。
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「抹茶ババロア、食べたかったねえ。残念」
たいして残念でもなさそうに、母は言う。
「びっくりしちゃった、紀の善がとっくに閉店しちゃってたなんて。でもペコちゃん焼いっぱい買ったし、パパも喜ぶね」
隣を歩く母は、ことさら明るい声で饒舌に話し続ける。その明るさが、今は逆につらいというのに。
洗ったり乾かしたりする時間を節約するために短く切った髪を、それでも風は揺らしてゆく。春先の、生ぬるい南風。
「でも間に合ってよかったよねえ。アドバンス医系コースって競争率高いんだもんね」
書類の手続きも学費の払い込みも終えて気分がさっぱりしたのは本当なのだろう。でもやっぱりその不必要なまでに明るい声音には、ナーバスになっている娘への気遣いが滲んでいた。
南風は、母の黒いフォーマルワンピースにもためらいなく入りこみ、袖や裾を膨らませる。今日くらい黒い服じゃなくてもいいのに、春くらい春色を着ればいいのに、この人は本当に頑なだ。もう諦めているけれど。
神楽坂を下りきって横断歩道を渡り、JRの駅へ向かう。親子連れや学生、社会人たちとすれ違う。まさに人生の交差点だと、ふと思う。みんなみんな幸せそうに見えて、紙袋の持ち手が食い込む右手がしんと冷える。

これから一年間、こうしてここに通うのだ。JR山手線の環っかの、ちょうど真ん中あたりのこの街に。
鳳緑予備校には、高卒クラスだけでなく現役生のクラスもある。現役合格を夢見ることの許される、可能性に満ちた子たちの姿をたびたび目にしながら、一年間くじけずにやっていけるだろうか。
いや、やるしかないのだ。すべての人の頬を等しく撫でてゆく春風の中に、決意の息を吐き出す。
医学部合格は、浪人を経て果たす人がとても多い。国公立大狙いならば、なおのことだ。
一年だ。一年で決着をつけよう。医学部受験対策が国内最高峰との呼び声高い鳳緑予備校で、一年間だけ頑張ればいい。さっき見てきた坂の上の校舎は、大きくてシステマティックでほどよい緊張感が漂っていて、かなり快適そうだった。受付の職員さんたちは和やかで優しそうだった。テレビにもよく出ている有名な講師とすれ違って、どきっとした。
「むしろ、『入学後に困らないように鳳緑で学んでおいたほうがいい』なんて言う人もいるくらいだしねえ」
母が、わたしの心を読んだように言う。
そうなのだ。
実家が遠方の生徒のために寮まで完備されている鳳緑予備校、そこに電車で通える距離に住んでいるなんて、めちゃくちゃ幸運なことなのだ。両親が健在で、学費はもちろん、手間も時間も惜しまずにサポートしてもらえることも。
「私大は受かってたんだもの。O大がだめだったのは面接のせいだし。睦なら、来年は余裕だよ」
なおもポジティブな声がけをしてくる母に、ようやく顔を上げて微笑みかけようとしたときだった。すれ違おうとした人影が、わたしたちの前で足を止めた。
「あれ? 瓜田さん?」
至近距離なので、スルーすることもできなかった。
「瓜田さんでしょう? 髪、切ったんだねえ」
及川くんだった。黒いダウンジャケットのポケットに両手を突っこんだままこちらを見ている。
右手に提げていた紙袋のロゴを隠すように、胸に抱え直す。でも手遅れだった。鳳緑予備校の紙袋にはテーマカラーである緑が大きく使われ、遠目にも目立つ。同じ紙袋を提げて歩いている親子連れもたくさんいる。申し込みをしてきた帰りであることは、誰の目にも一目瞭然だった。
「睦、お友達?」
母が品のよい笑みを浮かべ、軽く首を傾げる。どんな相手にもまずは丁寧に接する人だ。そんな母に、この人との関係をなんて説明すればいいんだろう。
「えっと……二年のとき同じクラスだった……」
「どーもー」
頭を下げるというよりは顎を突きだすだけの会釈をして、及川くんはこちらを無遠慮に観察するような視線をたっぷりと浴びせ、楽しそうな表情を浮かべる。
「そっか、O大受けるって聞いてたけどだめだったんだね。そんで鳳緑通うんだ。そっかー、頑張ってね。俺そこのH大だから、これからもばったり会えちゃうかもね」
瞳に感情を宿さないようにするのが精いっぱいだった。
せっかく奮いたたせた心がまた、鉛のように重くなった。
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受かったと思っていた。だから、わざわざ直接大学に見に行った。
それなのに。
「……え、もしかして、ない系?」
掲示板と俺の顔を交互に見ていた直井先輩が、笑顔を引きつらせ遠慮がちな声で言った。どういうテンションに切り替えればいいか迷っている様子だ。
直井先輩はこの大学の一年生で、去年の春までは俺の高校の陸上部の先輩でもあった。合格した後輩を胴上げする文化が、うちの部にはある。
「ない系、っすねー」
気遣われる前に、俺はへらりと笑った。内心、落雷のようなショックを受けていた。貼りだされた掲示板に未練たらしく目を走らせるものの、近い番号帯に俺の受験番号はやっぱりない。どこにもない。
え、なに、どうすんの。どうなるのこれ。やばくね?
楽勝だったと告げてしまったときの両親の笑顔が、苦い気持ちとともに蘇る。目の前には、気遣わしげな先輩たち。心臓がばかみたいにどくんどくんいい始めた。

もう下火になったのだろうと油断していたコロナに罹り、併願として受験予定だった私大の入試をまるごと棒に振ってしまった俺だが、本命の国立T医科大で問題なくいけるだろうと思っていたのだ──ほんの一分前までは。だって筆記の感触があまりによくて、自己採点もろくにしなかったくらいだから。
直井先輩も、直井先輩が胴上げする気まんまんで集めてくれた大学の陸上部員の人たちも、こちらを窺っているのが手に取るようにわかった。あー、とか、まじかー、といったぼそぼそした声が耳に入る。うう、やばい。死にたい。
「あははー、やっちゃったみたいっす。せっかく来てもらったのにすんません」
顔の前で手刀を作り、頭を下げてみせた。つとめて軽い調子で。陸上部で苦楽を共にした先輩。大会で結果を出せずに涙と鼻水だらけの顔を見られたことのある相手であっても、こんなださい姿を見せるのは次元の違う屈辱だった。
「ばーか、耕平」
筋肉質の硬い腕を首に巻きつけられた。
「ちょ、苦しいっす、ギブギブ」
ようやくいつもの調子が戻ってきて、俺は必要以上におどけた声を出す。直井先輩が安心したのがわかった。
「そしたらもう、来年だ来年。来年待ってるから」
「そうだよ、多浪だって珍しくないんだし」
「そうそう」
陸上部の人たちもほっとしたように笑って声をかけてくる。
それはそうだけど。俺は直井先輩みたいに、このT医科大に現役合格をキメてみせたかったんだ。実際、かなり自信あったのに。自分の番号を見つけて飛びあがって喜ぶ人たちを目に入れないようにしながら、俺はさらに口元を無理やり引き上げて笑う。
「やー、後期でどっかに入るから、ここの校門くぐることはないっすねー」
「なんだよ、期待させやがってよお。ばか耕平」
「ぎゃはは。すんませーん」
だけど、このときの俺はまだ甘かったのだ。
後期試験にさえ落ちてしまうなんて、思わなかったのだから。
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三者三様の受験を送った三人は、医学部受験に特化した予備校・鳳緑予備校 飯田橋校舎で出会います。学校で出会っていたらきっと、仲良くならなかったであろう三人が仲を深め、それぞれの人生を歩んでいく様子は、ぜひ『飛距離の長い青春』の書籍でお楽しみください。
また、著者の砂村かいりさんのインタビューもお読みいただけます。なぜ浪人生を主人公にしたのか、執筆の裏側についてお話しいただいていますので、こちらもぜひ。
飛距離の長い青春

砂村かいりさんの小説『飛距離の長い青春』に関する記事をアップします。











