昭和100年目の2026年、二人の時代の目撃者が〈激動の昭和〉と〈混沌する今〉を射抜いた新書『一寸先は闇』を緊急出版。これまで以上に、予測不能かつ瞬時に変貌する世界情勢の中で、変わらぬもの、変わるべきものとは何か。混沌を生き抜く勇気が灯る本書から、一部をご紹介します。
二・二六事件より黒豹脱走と阿部定事件が注目された戦前
五木 戦後80年も過ぎて、「新しい戦後」が語られる時代になってきました。もう戦前・戦中を知る人間も減ってきたせいか、いまの戦争の語られ方には、僕らの世代の感覚とのあいだに、ズレがあるような気がして仕方ないんですが。
佐藤 映画やドラマでも、五木さんがおっしゃっていたような国民の高揚感はほとんど描かれませんからね。庶民はみんな最初から反戦だったような話が大半です。
五木 戦前と戦中には違いがあるし、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって以降も、世情の変化はありました。
佐藤 昭和15年(1940年)の大政翼賛会設立はひとつの節目かもしれません。「ぜいたくは敵だ」という有名なスローガンが生まれたのもこの年です。
五木 『暮しの手帖』(1948年~)の花森安治(1911年~1978年)が考案したともいわれていますね。
佐藤 さらにその翌年には、同じく大政翼賛会から『進め一億火の玉だ』が出てきます。
五木 そういう言葉の印象が強いから、庶民は戦争に奉仕することばかり考えていたように思われやすいけど、僕が小さかったころは、戦争中でも競馬をやっていた記憶があるんですよ。平壌にも競馬場がありましたからね。
佐藤 それは絶対にやっていたはずですよ。軍馬を育てないといけないから。
五木 なるほど、そうか。軍馬養成という大義名分があるから、競馬は大目に見られていたのかもしれないね。とはいえ、大衆のためのギャンブルが当たり前に行われていたわけです。ある意味で、戦争をしつつも、同時に国民に対して開放していた時代でもあるんですよね。
佐藤 日中戦争のきっかけになった昭和12年(1937年)の盧溝橋事件以降を「戦中」とするならば、それまでの「戦前」も世間的なイメージとはかなり違います。もちろん僕は当時の雰囲気を知りませんが、たとえば二・二六事件が起きたのは昭和11年(1936年)2月。たしかに歴史に残る大事件ですが、この年はほかにも大きな事件がありました。二・二六事件は、「昭和11年の3大事件」と称される出来事のひとつにすぎません。それよりも大きく報じられた事件が2つあります。
五木 ほう。何なんですか、それは。僕が4歳のときですけど。
佐藤 その年に世間がいちばん注目したのは、この年の7月に起きた上野動物園の黒豹脱走事件。メスの黒豹1頭が脱走して、とくに被害もないまま半日後には捕獲されたのですが、メディアが煽ったこともあって、東京中がパニックに陥りました。
その次に大きく報道されたのが、5月に起きた阿部定事件です。窒息プレイで殺した男の局部を切り取った女・阿部定(1905年~没年未詳)が、逮捕されるまでの3日間、それを持ち歩いていた。報道のプライオリティとしては、二・二六事件は黒豹と阿部定に次ぐ3番目です。二・二六事件は「暗い戦前の象徴」のように語られますけど、世間は脱走した黒豹や猟奇的な女の出現に驚き、「こんなことが起きるなんて、世も末だ」と思っていたのかもしれません。
五木 黒豹と阿部定も明るいニュースではないけど、みんな怖がりながらもちょっと面白がっていたんでしょうね(笑)。
佐藤 二・二六事件は、裁判で首謀者が死刑になったことだけは報じられましたが、世間的には「面倒くさいことが起きたな」ぐらいの受け取られ方だったかもしれません。しかしこの事件をきっかけに、軍部(陸軍大臣・海軍大臣)大臣の現役武官制が復活しました。陸軍が現役の軍人を大臣として出さないと、政党内閣が崩壊するわけです。
五木 つまり、軍部が政治を主導できるようになった。
佐藤 そうやって戦争に向かう道ができたわけですから、本来ならトップニュースです。しかしメディアも大衆も、黒豹と阿部定に夢中だったんですよ。もっとも、そういうギャップはどの時代にもあります。いまの世界も帝国主義的な流れが復活して、戦争のリアリティがどんどん増しているけれど、メディアや大衆は政治家の小さな不祥事にイキリ立っているわけで。
庶民が切迫感を抱いたのは空襲が始まってから
五木 大きな潮流は、かえって目に入りません。日中戦争の前とはいえ、すでに満州国(1932年~1945年)は建設されて、日本は大陸に進出していたわけですが、一般市民には一般市民の日常があったということでしょう。
昭和16年(1941年)に日米(太平洋)戦争が始まっても、暗い雰囲気はありませんでした。「アメリカと戦争して勝てるわけがない。日本もこれで終わりだ」なんて考える人は、ふつうの一般市民の中にはいなかった。メディアもみんな戦勝気分を煽り立てましたから、国民の大部分は歓喜して、毎日毎晩、盆踊りが続いているような気分だったんですよ。
佐藤 一般市民のあいだにも戦争に対する切迫感が出てきたのは、昭和20年(1945年)に入ってからだと思います。昭和19年(1944年)の11月ぐらいから本格的にB29が本土を空襲するようになりましたが、当初は軍事目標主義だったから、民間人にはそれほど大きな切迫感がなかった。
それが大きく変わったのは、やはり昭和20年3月10日の東京大空襲でしょう。それまでの空襲と違って、あのときはまず下町の周縁部に焼夷弾を落として、退路を断ってから町の真ん中に爆弾を落とした。それ以前の空襲は死者数百人程度でしたが、東京大空襲はそういう無差別爆撃だったから、一晩で10万人も死んだんです。
そうやって東京が焼け野原になったのを見て、みんな「これは大変だ」と感じたんですよね。そこから、都市部の人々は本気で疎開し始めた。

五木 僕は平壌にいたから、東京大空襲のことも知りませんでした。でも、それまでは一般市民に切迫感がなかったのは、よくわかります。
ただ国民の中に一瞬だけ不安がよぎったのは、たぶん昭和18年(1943年)の春に連合艦隊司令長官・山本五十六(1884年~1943年)の戦死が発表されたときでしょうね。あのとき、僕の母が「この戦争、負けるんじゃないかしら」とつぶやいたのを覚えています。それを聞いた父は激怒してましたけどね。不安を抱きながらも、大部分の国民は一発逆転の神風が吹くのを信じていたんだと思います。
佐藤 その昭和18年4月1日に『敵機空襲』という松竹の映画が公開されたんですよ。設定はこうです。アメリカがミッドウェー島に巨大な航空基地をつくって、新型の爆撃機を配備する。その爆撃機は、帝都東京を往復できるんですよ。日本はそれに備えて防空体制をつくらないといけないんだけど、隣組で防空壕を掘ろうとしているときに、金持ちは彼らに金一封を渡して、自分ではやらないんです。一方では、そんなときに土地転がしをやって金儲けしている奴もいる。どうしようもない日本人の姿が描かれるんです。
そして実際にアメリカ空軍が攻めてきたら、これがものすごく強い。第一陣は体当たり攻撃とかでやっつけるんだけど、第二陣を止めることができなくて、銀座四丁目の服部時計店(現在の和光本店)なんかもすべて爆破されて、東京が焼け野原になる。そういう映画です。
五木 それが東京大空襲の2年前?
佐藤 そうなんですよ。2年後に起きることを、ほぼ正確に予告しているんです。でも最後のところで大工のおじいさんが「なんのこれしき。こんな空襲は屁みたいなもんだ」と虚勢を張って終わるんですね。観客も、これを娯楽映画として見ていた。上原謙(1909年~1991年)、田中絹代(1909年~1977年)、高峰三枝子(1918年~1990年)という豪華キャストで、その三角関係も描かれたりしていますから。
五木 なるほど、盛りだくさんなんですね(笑)。
佐藤 そういう映画が娯楽として存在していたんですから、やはりまだそんなに深刻な雰囲気ではなかったんでしょう。昭和19年(1944年)の11月に公開された『かくて神風は吹く』という大映の映画は、やや悲壮感が出てきますけどね。元寇を描いた時代劇で、こちらも阪東妻三郎(1901年~1953年)、片岡千恵蔵(1903年~1983年)、嵐寛寿郎(1902年~1980年)、月形龍之介(1902年~1970年)といった豪華キャストです。円谷英二(1901年~1970年)率いる東宝特殊技術部も参加してますね。
とはいえ、昭和19年まではまだ余裕がありました。しかし昭和20年に入ると、空襲の被害に加えて、食糧危機も起こりました。米軍が海上に機雷をまくので、朝鮮半島から米を運ぶ貨物連絡船が危うくなったんですね。
*中略*
西洋思想に抵抗した知識人が大東亜戦争を「聖戦」にした
五木 明治のころまで、日本の庶民の頭の中には「国体」という概念がほとんどなかったと僕は思うんですよ。それが大正から昭和にかけて一般庶民のあいだにも広がっていったのは、やはり当時の知識人たちの役割がとても大きかったと思うんだけど。
知識人たちが本居宣長や平田篤胤を読み、そこから日本の国体化が民衆のあいだに広がっていったのが大正、昭和だと思います。戦前・戦中の日本人はけっこう読書家だったから、西田幾多郎や三木清(1897年~1945年、哲学者・評論家)の哲学なんかを若い学生たちも一生懸命に読んでいました。
うちの父親なんかも、そういう変化の一翼を担っていたんでしょうね。そういう東西の哲学を総合することで自分たちの新しい思想を生みたいという高揚感が、昭和の知識人にはありました。「いま自分たちは、新しい思想の時代に直面している」という意識は、独特のものだったと思いますね。
もちろん、一方では在郷軍人会の役員たちが全国津々浦々で講演して、軍国主義的な思想を鼓吹していました。でもそれとは別のところで、知識人たちが大きな影響力を発揮していた。軍に強制されたわけではなく、「自分たちは西洋思想に対抗して、アジアにおける日本人の独立したアイデンティティを確立するんだ」といった気概が、そこに結集していたと思うんです。そういう潮流を、末端の庶民に近いところでは吉川英治(1892年~1962年)などの作家たちが担うわけですが、最上流にあった京都学派の影響もすごく大きい。
佐藤 おっしゃるとおり京都学派の影響は大きいですね。ただし竹馬に乗って地に足のつかない議論をくり広げた挙げ句に、大風呂敷を広げすぎた感は否めませんが。
五木 日本人としての自意識を高めるような思想を追求していく中で、アイデンティティの象徴としての天皇家も、存在感を高めていったわけです。大東亜戦争を聖戦として位置づける上でも、彼らの思想が不可欠だったと思います。
佐藤 それはそうですね。
五木 軍人たちは軍人たちで、大正デモクラシーの時代に軍隊が世間から軽んじられていたことへの反発心から、昭和になると新しい軍国主義を鼓吹しました。でも、それだけでは国民は動かなかったでしょう。知識人たちが思想的にリードしたのが、すごく大きかったんじゃないかという気がしています。
佐藤 それを、さらにマスコミが煽り立てた。
※次回は4月18日(土)公開予定です。
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