昭和100年目の2026年、二人の時代の目撃者が〈激動の昭和〉と〈混沌する今〉を射抜いた新書『一寸先は闇』を緊急出版。これまで以上に、予測不能かつ瞬時に変貌する世界情勢の中で、変わらぬもの、変わるべきものとは何か。混沌を生き抜く勇気が灯る本書から、一部をご紹介します。

佐藤 いまの日本社会には、戦中のような国民の一体感はありません。だいたい唯一無二の「大義」がありませんからね。
でも昭和100年を過ぎたところで、良くも悪くも一体感が復活する可能性はあります。戦争が起これば同じことになるかもしれませんし、それよりもリアリティがあるのは自然災害です。南海トラフ地震や首都直下型地震などがいつ起こるかわかりません。
そういう大災害が発生すれば、復興に向けて国民の団結が強まるのではないでしょうか。南海トラフ地震では、死者数が最大で約30万人、避難者数は約1000万人だと被害想定されています。首都直下型地震の想定死者数は約2万3000人。いずれにしろ、もしかしたらGDPが半分以下になって、われわれは再び飢餓きがを経験するかもしれない。いまの食糧自給率(カロリーベース)は38%(令和6年度時点)ですから、数十万人単位の餓死者が出ても不思議ではありません。
そんな規模の大災害からの復興となると、日本人が参照すべき過去のケースは戦後の高度経済成長期の比ではないと思います。高度成長も敗戦からの復興だったわけですが、もはや経済成長に頼ることはできません。むしろ戦中の国家総動員的なやり方で国を立て直して、生き残ろうとするような気もします。
五木 なるほど。たしかに自然災害は日本にとって大きな脅威ですよね。小松左京(1931年~2011年、小説家)さんの『日本沈没』(1973年)が世の中に強いショックを与えたのも、日本人は潜在的にそういう不安を広く共有しているからだと思います。
ただ、昭和的な一体感がいまの日本に生まれるかどうかはわかりません。というのも、僕は昭和の日本人に一体感をもたらした大きな要因は「歌」だったと思っているんですよ。みんなが同じ歌に引きずられていたのが、昭和という時代だった。しかしいまの日本には、そういう歌が見当たりません。
佐藤 なるほど、それはじつに五木さんらしい「虫の目」からの時代観察です。
五木 最近はテレビでもよく「昭和歌謡」が注目されますが、そこで取り上げられるのは、ほとんど戦後昭和の歌ですね。出版社の編集者たちと話をしていたら、彼らにとっての昭和歌謡は山口百恵(1959年~)や中森明菜(1965年~)のことだったのはショックだった。
佐藤 戦後も四半世紀以上を過ぎた1970年代や1980年代の話ですね。
五木 僕が淡谷のり子(1907年~1999年)の名前を出したらキョトンとされました。彼らには徳川時代の話みたいに聞こえたのかもしれない(笑)。ともかく、昭和のカルチャーを振り返るときに、いわゆる「戦時歌謡」はまったく無視されています。
でも実際は、戦時中に国民がみんなで熱唱していた歌がいくつもあった。たとえば古関裕而(1909年~1989年)が作曲した『暁に祈る』(1940年)とかね。「遥かに拝む宮城の 空に誓ったこの決意」というやつです。オペラ歌手(テノール)の藤原義江(1898年~1976年)が作曲した『亜細亜行進曲』(1932年)というのもありました。「有色の屈辱のもと 喘ぐもの亜細亜」なんていう歌をみんなが口ずさんでいたんです。
佐藤 昔、五木さんと廣松渉(1933年~1994年)先生の対談(『哲学に何ができるか』1978年、朝日出版社)の中でも、軍歌の話が出てきましたね。
五木 そうでしたね。廣松渉さんは福岡の柳川の育ちで、高校は伝習館高校です。古賀政男(1904年~1978年)と同郷なんですよ。
佐藤 もともと軍歌は兵隊の士気を高めるためにつくられたわけですが、戦時下ではそれが一般大衆のエンターテインメントになっていくんですね。
五木 そうなんです。『父よあなたは強かった』(1939年)なんかは、国民歌であり、戦意高揚歌でもあった。『愛馬進軍歌』(1939年)というのも覚えてます。「国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と」。もう、スラスラ出てくる(笑)。この曲は、日本競馬会が陸軍省と農林省に依頼したものでした。その歌詞の募集と普及を担当したのは、硫黄島で玉砕したことで有名な栗林忠道(1891年~1945年)氏です。そのときは陸軍省の馬政課長だったんですね。歌詞も曲も、全国から何万通もの応募があったといいます。
佐藤 みんなで歌うだけではなく、国民が自ら作詞作曲もしていたんですね。
明治維新は歌と共にやって来た
五木 ですから、昭和の時代に広く国民の意識を変えたのは国学系の経綸の書(国家について論じた本)みたいなものではなく、歌だったという気がします。昭和16年(1941年)12月8日の日米開戦にしても、ラジオからまず流れてきたのは『軍艦マーチ』(1900年)だった。その後で、大本営発表の海軍側の担当者だった平出英夫(1896年~1948年)という海軍報道部課長の発表が始まる。『軍艦マーチ』のときは、いいニュースなんです。真珠湾攻撃の大成功とか、マレー沖海戦で英東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈せり、とか。アッツ島の玉砕みたいな悲しいニュースのときは『海行かば』(1937年)で始まるんですけどね。戦争の後半は荘重な『海行かば』の曲が多かった。
佐藤 『軍艦マーチ』は海軍の大本営発表で、たしか陸軍の大本営発表は『敵は幾万』(1891年)じゃなかったかな。オープニングの曲によって、陸軍のニュースか海軍のニュースかがわかるんですよね。
五木 そうそう。どの音楽がかかるかによって、ラジオの前で身を乗り出したり、悄然と頭を垂れたりしていました。そういう放送も含めて、戦争中の一体感や高揚感をつくり出す上で、歌が果たした役割はじつに大きかったのです。
高邁な思想を掲げたアジテーターが大声で煽動しただけでは、国民はついていきません。大きなうねりをつくるには、やはり情感に訴える必要がある。「よし、ここでお国のために死ぬぞ」という感覚を醸成したのは、僕は歌だったと思います。
それは昭和の戦中にかぎった話ではありません。「明治維新は歌と共にやって来た」という見方をする人もいます。
佐藤 『トコトンヤレ節』(『宮さん宮さん』1868年)ですね。
五木 そう、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな」「あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか」という歌です。戊辰戦争(1868年~1869年)の官軍を描いたものですが、それを一般の庶民たちも口ずさんでいた。これも明治維新を推し進めるエネルギーのひとつだったわけです。しかし、「昭和維新は短調マイナーの歌でやってきた」と言っていた人もいる。軍歌もマイナーの歌が少なくありません。
佐藤 たしかにそうですよね。
人間を高揚させる歌のない時代
五木 ですから日本の文化というのは本質的に叙情的なんですね。これは戦後の話になるけれど、僕らが若かったころの昭和の学生運動もそうでした。政治的な理論や思想でその背景を説明する人が多いけれど、学生たちの行動を支えていたのは歌です。理屈だけでは、警官隊が待ち構えるところに飛び込んでいくことなんかできませんよ。
だから戦争や革命の背景には、必ず歌のうねりというものがある。理性だけでは、命をなげうってでも何かを成し遂げるほどの高揚感は生まれないでしょう。昭和の戦争も、歌に支えられた国民意識の情感の高まりがすごく大きかったと思います。
佐藤 『進め一億火の玉だ』(1942年)という軍歌もありました。
五木 よい歌には、人を行動に駆り立てる力があるんですよ。『大東亜行進曲』(1941年)を口ずさんでいれば、アジア全体に広がる大東亜共栄圏というイメージを日常的に感じることもできます。もちろん、そういった歌が理性を曇らせた面もあるでしょう。でも、人間は理性だけで動くものではないですからね。
佐藤 そう考えると、たしかに平成以降の日本には、そういう機能を果たす歌がないような気がしますね。
五木 政治運動や社会運動を、歌が支える時代ではなくなったんじゃないでしょうか。
佐藤 そもそも国民みんなが知っている歌がありませんよね。ユーチューブで何億回も再生されるヒット曲はあっても、知らない人のほうが多いでしょう。大晦日の「紅白歌合戦」で初めて聴いて「へえ、これが今年は売れていたのか」とわかるぐらいで。世代を超えて、誰でも歌える曲はなかなか見当たりません。
五木 それは国民みんなが思ってることだ(笑)。いまは、人間の感情を高揚させるような歌がない時代だと僕は思うんですよね。音楽的、技巧的に新しいものや面白いものはあっても。
※次回は4月17日(金)公開予定です。
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一寸先は闇

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