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褐色の血

2026.02.14 公開 ポスト

#4 人生をかけた告白…差別と分断がはびこる世界を生きた人々の物語がついに完結麻野涼

差別と分断がはびこる世界で"共生”を模索して生きた人々を描いた長編小説『褐色の血』。
ついに『褐色の血(下) ヘイト列島』が発売されました。
上巻冒頭、1975年の東京国際空港の場面から始まった物語は、はたしてどんな結末を迎えるのか。
完結編である本書の発売を記念して、全5回にわたり第一章、第二章を特別公開します。(#1から読む

*   *   *

「僕は母親のテレーザ一人の手で育てられた。僕はどこで生まれたのかも正直に言えばわからない。多分、母親の生まれ故郷ベレンではないかと思う」

トニーニョの出生届が提出されたのは母親がサンパウロに出てきた一九七四年のことで、この年にトニーニョはすでに二歳になっていた。何故、出生届の提出が遅れたのか。考えられるのは、そうした手続きをしなければならないことさえも、そしてその方法も、テレーザ自身、そして周囲の者が知らなかったからだろう。ブラジルの貧困家庭に生まれた者の中には、そうした子供は珍しくなかった。

「ベレンの祖父母、母の兄弟姉妹の話を一度も聞いたことがないんだ」

テレーザはベレンで暮らしていた頃の話をするのを極端に嫌がった。昔の話を聞こうとすると、急に不機嫌になるのを子供ながら感じていた。

「傷つけるようで、母親の子供の頃や、サンパウロに出てきた経緯は何も聞いていない。僕がどうして生まれたのか、父親が誰なのか、僕はそれさえも知らないんだ」

喉が渇く。いや熱い。そして痛い。

トニーニョが生まれたのはテレーザが十八歳の時だった。

「おそらく母は望まぬ妊娠で僕を出産したのだと思う」

次の言葉が出てこない。どう話せばいいのだ。大聖堂を訪れる観光客や、祈りにやってきたカトリコたちのざわめきも、高さ六十五メートル、直径二十七メートルの巨大なドームにすべてが吸い込まれ、トニーニョには水底に沈んだような静けさしか感じられない。

「母はベレンで家族の生活を支えるためだったのか、あるいは自分が生きていくためだったのか……」

言葉が途切れた。何度も深呼吸を繰り返したが息苦しい。

「男に抱かれ、それを生業にしていたんだ……」

トニーニョは正面のキリスト像を見つめたままだ。横を振り向く勇気はない。

「サンパウロに出てきてからも、母はそれ以外の職業を見つけることはできなかったと思う。二歳の僕を抱えて、すぐに現金が手に入る仕事といえばそれしかない。母は優れた女性で学ぶ機会さえあれば、違う人生を歩めたはずだ」

トニーニョは自分が学校に通い始めると、わからないところがあると母によく質問をした。テレーザから返ってくる返事はいつも決まっていた。

「自分で考えなさい。答えは教科書を読めばわかるはずよ」

母親は一日も学校に通ったことはなかった。文字を覚えたのも、簡単な計算ができるようになったのも、学校で学んだ知識をトニーニョが復習するのを横で見ながら学んだのだ。

「母が死んだのはガンだと君には伝えてきたが、それは真実ではない。君にはウソをついてた。神の前で真実を言おう。母はAIDSだった。僕はまだ高校生だった。死期を悟った母は、僕が高校を卒業し、大学に入るのを見届けてから死にたいと、よく話していた」

高校卒業も、大学の合格も知らずに亡くなった。しかし、母の死に顔は眠っているように安らかだった。体を売るしか生きるすべを知らなかった母親にも、心から愛し尊敬する男性が一人いた。その男性も母親のことを忘れずにいてくれた事実を、死ぬ三週間前に知ることができた。トニーニョにとっても、テレーザにとっても、それは救いだった。

「僕が教育学部を選んだのも、母のような人生を歩む子供を一人でも減らしたいという思いからなんだ。母も僕がそうした生き方をするのを望んでいたはずだ。君と一緒にその夢に向かって未来を歩いていきたいと思っている。神に誓う。僕はセシリアを心から愛している」

トニーニョは目を閉じ、両手を組み、心の中で再び神に祈った。

──どうか僕の思いがセシリアに伝わるように、神よ。

目を開ける勇気も、隣に視線を向けるのも恐ろしくてできない。ひたすら祈った。どれほどの時間が経過したのだろうか。トニーニョにはとてつもない長い時間に感じられた。

すすり泣く声が聞こえた。

「神様、心から感謝します。私は心から愛する男性と、同じ希望、同じ夢を持って生きていこうと思います」

トニーニョはそっと目を開けて隣を見た。セシリアも両手を組み、神に祈っていた。泣いていた。頬を流れ落ちた涙が、ブラウスまで濡らしていた。トニーニョの告白を聞き、ずっと泣いていたのだろう。

うれしくてトニーニョはセシリアを抱きしめた。

抱擁し、キスしあう恋人同士の姿など、ブラジルでは珍しくもない。しかし、周囲の視線も気にせずに、泣きながら抱き合うカップルは教会には似つかわしくないのだろう。通路から好奇な視線を向けてくる者もいたが、二人にはそんなことはまったく気にならなかった。

「ありがとう、本当のことを話してくれて。私はトニーニョを愛しているし、テレーザも愛しています」

セシリアの言葉に、トニーニョは思わず力をこめてセシリアを抱きしめた。

セシリアに真実を話したことで、あれほどアプカラナに行くのを躊躇っていたトニーニョだが、そのわだかまる思いは、日向ひなたに放り出した氷の塊が灼熱の太陽に照らされて溶けていくように、いつの間にか溶解していた。

関連書籍

麻野涼『褐色の血(上) 混濁の愛』

「褐色の世界にこそ私の求めているものがあるような気がします」 1975年、二人の男がブラジルへ向かうため空港にいた。ひとりは仲間に見送られ、もうひとりは孤独に。 児玉は、サンパウロでパウリスタ新聞の記者として働くことになっていた。ブラジル社会に呑み込まれつつも、日系人の変遷の取材にのめり込んでいく。人種の坩堝と言われるブラジルで、児玉は「ある答え」を、この国と日系人社会に求め始めていた。 一方、サンパウロのホンダの関連会社で整備士として働く小宮は、ブラジルで日本では味わうことのなかった安心感をおぼえていた。現地で出会う人々に支えられながら、次第にブラジル社会へと馴染んでいく。 国家、人種、民族、人は何を拠り所に生きるのか。 差別に翻弄された人々の50年にわたる流浪を描いた長編小説三部作の序章。

麻野涼『褐色の血(中) 彷徨の地図』

差別の根本は、あの頃と何も変わっていなかった。 1978年。 児玉はサンパウロで出会い、愛し合ったマリーナと結婚し、息子・洋介マルコスを連れて日本へ帰国する。 フリージャーナリストとして筆をとるが、収入は乏しく、家族を養うためにノンフィクション賞の受賞を狙う日々が続く。 一方の小宮は、サンパウロで自動車整備工場を開き、順調に事業を拡大していた。 だが、ブラジルを襲ったハイパーインフレがすべてを狂わせる。 資金難に追い詰められた彼は、出稼ぎとして日本行きを決意する。 日本で再会を果たした二人。 それは再生への第一歩だったのか、それとも――絶望への入り口だったのか。 かつて決別した過去が、影のように二人の背後から忍び寄っていた。

麻野涼『褐色の血(下) ヘイト列島』

かつて母・テレーザの治療費を稼ぐため、日本を訪れたトニーニョ。 観光ビザでの入国だったため、働くことができず警察に拘束されていたところを、児玉に助けられた。 ブラジルに戻ったトニーニョは大学を卒業し、学校に行く機会のない子供たちのための夜間学校を始める。 だが、運営は厳しく、当面の資金を稼ぐため日本の大泉町へデカセギに行くことを決意する。 大泉町で、ブラジルから戻った元移民の折原と出会ったトニーニョは、デカセギ子弟たちが抱えるいじめやダブルリミテッドの問題を知り、折原と協力し、デカセギが安心して働ける場所とデカセギ子弟の教育問題に取り組む会社を設立する。 そんな中、児玉が彼らの取り組みを取材し記事にする。トニーニョはかつての恩人との再会を果たすが、その記事がヘイトの標的となってしまった。 デカセギと住民の和解への第一歩が、インターネットによりヘイトを過激化させていく。 そして、ついに恐れていたテロが・・・。 差別と分断がはびこる世界で"共生”を模索して生きた人々を描いた長編小説『褐色の血』。ついに完結!

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褐色の血

「褐色の世界にこそ私の求めているものがあるような気がします」

1975年、二人の男がブラジルへ向かうため空港にいた。ひとりは仲間に見送られ、もうひとりは孤独に。

児玉は、サンパウロでパウリスタ新聞の記者として働くことになっていた。ブラジル社会に呑み込まれつつも、日系人の変遷の取材にのめり込んでいく。人種の坩堝と言われるブラジルで、児玉は「ある答え」を、この国と日系人社会に求め始めていた。

一方、サンパウロのホンダの関連会社で整備士として働く小宮は、ブラジルで日本では味わうことのなかった安心感をおぼえていた。現地で出会う人々に支えられながら、次第にブラジル社会へと馴染んでいく。

国家、人種、民族、人は何を拠り所に生きるのか。

差別に翻弄された人々の50年にわたる流浪を描いた長編小説三部作の序章。

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麻野涼

一九五〇年、埼玉県生まれ。ノンフィクション作家、小説家。早稲田大学を卒業後、ブラジルへ移住。一九七五年から三年間、サンパウロで発行されている邦字新聞「パウリスタ新聞」(現・ブラジル日報)の記者を勤める。帰国後、高橋幸春のペンネームでノンフィクションを執筆。二〇〇〇年からは麻野涼名義で小説も手がける。ノンフィクションに『カリブ海の「楽園」』(潮ノンフィクション賞受賞)、『蒼氓の大地』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『絶望の移民史 満州へ送られた「被差別部落」の記録』『だれが修復腎移植をつぶすのか 日本移植学会の深い闇』、『日本の腎移植はどう変わったか』、小説に『天皇の船』(江戸川乱歩賞候補「大河の殺意」を改題)、『国籍不明』(大藪春彦賞候補)、『闇の墓碑銘』、ドラマ化された『死の臓器』などがある。

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