ほんのちょっと、渋谷が苦手だ。生まれも育ちも東京で、スクランブル交差点も誰ともぶつからずヒョイヒョイと対岸に渡れるほどの都会っ子なのに、渋谷はどうにも慣れない。大好きなお店も多いし、休日にはしょっちゅう遊びにも行く。でも、再開発で形を留めない街並みに、人々の笑い声やお店の呼び込みや大音量の宣伝カーの音に、「この商品を買え!」といわんばかりのポスターや看板の圧力に、少し疲れてしまう。
そんな情報の濁流のような街の中で、一切に流されず凛として在り続ける喫茶店を見つけた。大型ショッピングモールの渋谷ヒカリエから305号線を北上し、ミヤシタパークのちょうど真向かいの路地に「茶亭 羽當」はひっそりと佇んでいる。そこはいわば渋谷のど真ん中。しかしその中は、都会と思えない静けさと美しい秩序が保たれているのだ。
羽當に入ってまず目を引くのが、カウンターの背後に並ぶ色とりどりのカップとソーサー。中華風の青いカップ、英国風の花が描かれたもの、南米を思わせる鮮やかな色合いのもの……。飲食店では同じ食器で統一されることが多いが、羽當では似た絵柄であっても同じものはほぼない。様々なバリエーションに富んでいるが、カオスな状態ではなく統一感があるのが驚きだ。ちなみに表に飾られているものは600個ほどで、裏には200~300個のカップが控えている。ここまで集めるには相当な苦労があったのだろう。それを想像するだけで、胸が熱くなる。
カウンターの先を見やると、大きな植物を携えた2つの長机と、食器や本や置物を詰め込んだレトロな棚が2つある。L字の形のような建物の、ちょうど曲がった先の空間だ。ダークブラウンの調度品で統一された空間は、アンティーク家具屋に来たような、はたまた博物館に来たような、厳かだが温かみのある雰囲気でホッとする。2つの棚の隣には木製のクラシックな柱時計がある。それがボーンボーンと鳴る姿は、きっとこの空間にぴったりだろう。
こんなうっとりするような空間が渋谷の只中にあるだなんて、頭では分かっていても信じられない。ひょっとしたら、ドアを開けた途端に異世界に迷い込んだのかも……? そんな妄想をしてしまうほど。
羽當のはじまりは、1989年。今年で35年目になる。羽當のオーナーの友達がこの場所で喫茶店を開いていたが、代替わりで辞めることになったので、オーナーが場所を引き継いだそうだ。羽當として開店する際に内装を一新し、古材をふんだんに使ったアンティークな基調の店内へと生まれ変わった。今現在、店頭に立って羽當を切り盛りするのは店長の寺嶋和弥さん。コーヒー屋に勤めていたことからオーナーに声をかけられ、創業当初から羽當で働いている。特徴的な色とりどりのカップは、オーナーと寺嶋さんで集めたそうだ。店頭で購入することもあれば、ネットで買ったり、出先の思いがけない出会いで購入することもあるのだとか。
どうやってこの600もあるカップから、たった1つお客さんに出すカップを選んでいるのだろう。ハンドドリップでコーヒーを淹れる寺嶋さんに伺ってみると、なんとお客さんひとりひとりを観察してカップを選んでいるそうだ。例えばその人の服装や雰囲気を見て、あるいは季節に合わせて、グループで来た時には同じようなカップにならないように気をつけている。また、常連さんは使用するカップが決まってしまうこともあるが、来るたびに新しい楽しみがあるように、なるべく色んなカップを使うようにしている。
なんて繊細で優しさに溢れた気遣いだろう。お客さんひとりひとりをしっかり観察するなんてただでさえ忙しい営業中に大変だろうし、常連さんが使うカップを次回の来店時まで覚えているなんてよほどの根気が必要だ。私なんて自分が使ったカップすら忘れてしまうのに!
寺嶋さんが私に羽當オリジナルのブレンドコーヒーを淹れてくれたカップは、お正月の縁起物のセンリョウのような赤い実をつけた植物の絵柄。訪れたのが1月だったので、お正月をイメージしたカップにしてくれたそうだ。やや淡い色で色付けされたカップは雅な雰囲気があって、見ているだけで心がほころぶ。寺嶋さんに一言お礼を言って、コーヒーを口にした。一口目はとても軽く、そして口に含んでいるうちに深い味わいがじんわりと広がる。美味しい。純喫茶のコーヒーは深みが強いものが多いけれど、羽當は酸味と苦味のちょうどド真ん中。様々な人の口に合うようにバランス良くブレンドをしたという羽當のコーヒーは、普段飲み慣れない人にもおすすめできる、飲みやすく美味しく優しい一杯だ。
コーヒーだけでも美味しいが、コーヒーをさらに美味しく味わうのにおすすめしたいのが手づくりのスイーツ。「スイーツのおともにコーヒーがあるのではなくて、コーヒーのおともにスイーツがある」と寺嶋さんは言う。どこまでもコーヒーへの愛が徹底されていて、うっとりする。
人気なのはメープル、紅茶のシフォンケーキ。開店当初から続いているというシフォンケーキは、しっとり感がありつつも生地はしっかりとしていて、そして全く重くない。ケーキ単体でももちろん美味しいが、たしかにコーヒーを飲むとさらに美味しくなる。シフォンケーキは他にも抹茶、黒糖、バナナ、オレンジなど様々な味があるので、何度来ても楽しめるのが嬉しい。
さらに、レアチーズケーキも「コーヒーのおとも」におすすめだ。つるっとした食感が心地よく、口の中でほろほろ溶けるコクのある美味しさ。ブルーベリージャムとの相性が抜群で、味を変えながらいつまででも食べられる。スイーツだけでも十分美味しいのに、あくまで「おとも」というのだからすごい。しかし一緒に食べてみると、「たしかに……」と頷いてしまう最高のマリアージュだ。
今もこれからも変化を続ける渋谷の中で、羽當はどう在るのかを寺嶋さんに聞いてみた。
「(時代に)流されないように、ということに気をつけている。長くやってこれたのは、常連さんのおかげ。その方たちがずっと来てくれるお店でありたい」と寺嶋さんは結んだ。
羽當を知ってから、渋谷で心落ち着きたい時にはこの場所に来るようになった。どんなに疲れていても、羽當のドアを開けるとフッと心が安らぐ。
休日にはしばらく待つ人もいるほど羽當が人気なのは、多くの人がその存在に癒されているからなのだろう。そして、これからも変わらず羽當として在り続けてくれることを、私を含め多くの人が望んでいるだろう。情報が溢れ、川のように流れ続ける街の中で、どうか流されず凛として佇む岩のようにあり続けてほしい。願いを込めて、コーヒーの最後の一口を飲み干した。
純喫茶図解
深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。
都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。
そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?