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海辺の俳人

2023.07.23 公開 ツイート

孫を見る父母の慈顔や実千両

小っちゃい顔 堀本裕樹

俳人・堀本裕樹さん、初めてのエッセイ集『海辺の俳人』が発売になりました。
和歌山の大自然に囲まれて育った俳人は、上京してから海にあこがれ続け、25年目にして、湘南の片隅の町にある「スーパーオーシャンビュー」の一軒家に移り住みます。結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えながらも穏やかに続いていく日々を綴ったエッセイより、試し読みをお届けします。

 

小っちゃい顔

「今しかないよ」、それが合言葉であった。

なぜか今、日本各地の新型コロナウイルスの感染者数が減っている。あれだけ猛威を振るい、医療崩壊まで起こして、やむなく数多くの人を自宅療養へと追い込んだウイルスが鳴りを潜めている。ワクチンの効果が出はじめたと誰しもいうけれど、実際のところこの急激な感染者数減の要因は、専門家すら理論的に説明できていない。この不思議ともいえる沈静化した状況が続くうちに、僕と妻のMさんは、和歌山に住む僕の父母のもとに琴世を連れていって逢わせてあげたいと思った。

琴ちゃんが生まれた二〇二〇年十月八日からまだ一度も、僕の父母は孫と直接対面はしていない。写真や動画やオンラインで琴ちゃんの姿を見ただけだ。コロナ感染拡大によって神奈川と和歌山との距離が大きな溝になっていた。ほんとうならば、とっくの昔に帰省して孫を抱かせてあげられていたはずだが、いくつも県境を越えていかなければいけない和歌山への帰省は感染のリスクを伴うために、僕らは躊躇し続けていたのだ。しかしついにルビコン川を渡るときが来たのである。僕とMさんは思い切って実行の計画を立てた。

「年末年始は帰省ラッシュになるだろう。そのタイミングで和歌山に帰るのはさすがに危ないような気がするし、混雑するなか、一歳の琴ちゃんが耐えられるか不安だから、十二月の平日に帰省しよう。今しかないよ!」

そう二人で決断すると、僕はまず両親にそのことを伝えた。電話で父に帰省する旨を伝えると、最初は心配そうに聞いていたが、なんとか受け入れてくれた。和歌山の田舎に住んでいると、神奈川から人が来ること、イコール、コロナを運んでくるという恐れがあるようだ。孫にはすごく逢いたいけれど、躊躇してしまう。その考えはよくわかるが、僕もMさんもワクチンは打っているし、父母も打っている。多少の感染リスクを伴うことはわかっているけれど、恐れてばかりではずっと逢えない状況のままだ。

琴ちゃんがまだ歩かず這い這いをしている、今だけのかわいさがあるこの時期に、父母に逢わせてあげたい。そんな思いで僕は、実家に泊まらずに和歌山のホテルに宿泊するからと、父を半ば説得するかたちで帰省の了解を得たのだった。

僕は早速宿泊先と往復の切符を押さえた。二泊三日の平日の帰省である。泊まるところは琴ちゃんの這い這いに備えて、畳がある旅館にした。洋式のホテルだと、靴のままで歩く絨毯に彼女を這い這いさせるのはためらわれる。畳だと心置きなく自由に這わせられる。そんな畳の和室である条件を第一に考えると、実家からは少し距離があるが、和歌山市の海側にある賀雑崎の旅館という選択になった。雑賀崎は和歌山市の観光地であり、戦国時代は雑賀孫市を頭領とする雑賀党の本拠地であったとされる場所だ。「日本のアマルフィ」とも呼ばれているらしいが、切り立った丘陵に集落がへばりつく漁村である。海が見える角部屋を運よく予約できた。

神奈川から和歌山までは新幹線に乗って行くことにした。新幹線は琴ちゃんのことを考えて、おむつがすぐに替えられるように多目的室が近くにある車両であると同時に、ベビーカーが近くに置ける席を確保した。窓口の若い駅員さんがその条件に見合う指定席を、タッチパネルの素早い操作を繰り返しながら一生懸命探してくれた。

宿泊先と往復の切符を押さえるだけでも、すべて子どもを中心に物事を考えて進めなければいけない。この初めての琴世を連れた大移動ともいえる帰省によって、改めて「僕らには幼い子どもがいるんだ」という否応なしの自覚が感じられてきたのであった。

さて、出発当日。僕ら三人は新横浜駅から新幹線のぞみに乗り込んだ。三人並びの席である。新大阪駅まで約二時間の琴ちゃんを連れた旅がはじまったのである。

僕とMさんとが一番懸念していたのが、車内で琴ちゃんが泣き叫ぶ状況であった。彼女は眠くなったりお腹がすいたりすると、手が付けられないくらい機嫌を悪くすることがある。抱いてあやしても静まらないときがある。そうなったらどうしよう……もちろん乗り越えるしかないのだが、二人はその最悪の状況を不安とともに思い描いていた。が、予想は良いほうに外れた。彼女の機嫌がいい。見慣れない新幹線の車内を珍しそうに見渡しては、何かのポスターに写っている犬を指さして「あ、あっ」と嬉しそうに声を出している。 琴ちゃんは犬が好きなのだ。ポスターに犬が写っていてよかったと思う。子どもを持つと変なところに安堵するものだ。それから車窓の外を見はじめた。猛スピードで過ぎ去る景色を彼女は乗り出さんばかりに見つめている。

「琴ちゃん、すごいね。速いね」

そんなことを言いながら、マスク姿のMさんと僕はお互い目顔で、「よし、よし、いいぞ。順調だぞ」という無言の言葉を交わし合う。

やがて車窓を見るのにも飽きたらしい。もぞもぞしはじめた。騒ぎはじめる微かな前兆がある。すかさず、おもちゃを琴ちゃんに手渡す。このおもちゃは、彼女にとっては初見である。帰省のために新しいおもちゃを買っておいたのだ。新しいおもちゃには食いつきがよく、しばらく夢中で遊んでくれる。琴ちゃんが騒ぎはじめたら手遅れなので、その前におもちゃに登場してもらった。Mさんの膝の上に乗っている琴ちゃんは、カラフルな押しボタンがいっぱい付いたおもちゃに集中している。「よし、いいぞ」と思う。

「気に入ったみたいだね」

「うん、よかった。もうすぐ名古屋だね」

僕とMさんは胸をなでおろす。そのうち、おもちゃにも飽きて、あくびしたり眼をこすりはじめたりしたかと思うと、Mさんの胸の中で彼女は寝てしまった。僕たちは、大きく頷く。

「大騒ぎせずに寝てくれた!」という安堵を含んだ喜びの頷き合いである。

三十分ばかり眠ってまた起きた琴ちゃんは、結局京都駅辺りで少しぐずっただけで、新幹線では、僕らが拍子抜けするくらいにおとなしかった。

新大阪駅のホームに降りると、僕は琴ちゃんに声をかけた。

「琴ちゃん、初めての関西上陸! よくがんばったね、えらい!」

「ほんとによくがんばったね! 琴ちゃん、おりこうさんだったね!」

Mさんの胸に抱かれた琴ちゃんもこの旅がよほど嬉しいのか、手足をばたばたさせて笑顔がはじけている。ベビーカーやら手荷物やらを抱え込んだ僕らは、新大阪駅から和歌山駅まで向かう、特急くろしおに無事に乗り換えた。くろしおの車内でも、彼女はおりこうさんで、ランチの離乳食をMさんの介添えでわしわし食べた。琴ちゃんはふだんからよく食べるので、車内での旺盛な食欲に僕らはまた安心したのだった。

やがて電車は紀の川を越えて、しばらくすると「次は和歌山、和歌山に止まります」の車内アナウンスが流れてきた。僕は大きなため息を吐き出した。Mさんと眼を合わせて、ふたたび頷き合う。神奈川から和歌山までの約四時間半の移動を終えて、やっと僕の父母の待つ和歌山に何事もなく到着しようとしている。

電車の扉が開いて和歌山駅に降り立った瞬間、僕とMさんは嬉しさが込み上げてきた。

「ヤッター! 着いた! 和歌山に着いたよ、琴ちゃん! よくがんばったね!」

なんという達成感だろう。僕とMさんだけの移動ならば、こんな感慨は湧いてこなかったに違いない。この小さな琴ちゃんを連れてこその達成感である。彼女も和歌山に着いたことがわかっているのか、なんだか興奮している。笑いながら手足を激しくばたつかせている。僕も二年ぶりの故郷に帰って来た。和歌山の空気や方言が懐かしい。僕らは浮き浮きした足取りで、大荷物を抱えて改札を出ると、タクシーに乗り込んだ。旅館にチェックインする前に父母の待つ実家に向かう。十分ばかり走ると、十二月の枯れた田んぼの風景が広がってきた。見慣れた小山が見えてくると、ようやく実家に到着したのだった。

「ただいま」

玄関を開けると、久しぶりの母の顔が出てきた。しばらくぶりだが、元気そうだ。

「よう来たね~。あら、琴ちゃん! わあ、かわいいよ。やっと、逢えたね。Mさんもよう来たね、疲れたやろ。荷物そこに置いて、あがってよ。わあ、ほんまかわいらしよ~」

Mさんも久しぶりの母と挨拶を交わしながら、僕の実家に迎え入れられた。父も元気そうで「よう来たな。おい、琴ちゃん!」と声をかけた。すると、人見知りしたのだろう、琴ちゃんが急に泣きだした。父もなんだか困った顔をしている。

「あれよ、はじめてでびっくりしたなあ。でも、ほんまにかわいらしな。写真で見るのと、ぜんぜんちゃうわ……かわいいわ」

母が泣きべそをかいている本物の琴ちゃんをしげしげと見つめながら嬉しそうに言った。

「そら、写真とは違うやろな……」

僕は今まで写真や動画だけでしか琴ちゃんを見たことのない父母の、本物の生身の琴世にやっと出逢えた気持ちを考えると、胸が詰まりそうになった。

「琴ちゃん、ようがんばって来たね。ほら、じいじとばあばやで。もう泣かんでええで」 僕がそう言っても、琴ちゃんは慣れない環境にまだ泣きやまない。

「そやけど、顔小っちゃいなあ」

母が感心したようにつぶやいた。

「そやろ。顔、小っちゃいやろ」

まるでかわいらしい珍獣を見るような、母の胸の底から出てくるらしい素直な感慨に、僕は笑った。父もMさんも笑っている。

この情景に出逢えただけでも、僕は和歌山に帰省できてよかったと思った。

「コロナで分断された絆」と、よくテレビや記事で言われるけれど、ほんとうに家族のつながりが断ち切られていたのだなと、孫と父母との対面を眼の前にして強く思ったのだった。コロナは全く厄介な、いやらしいウイルスである。そして同時に家族の絆の大切さを改めて教えてくれた疫病でもあった。

泣きやまない琴ちゃんに大好物のバナナを切ってあげると、手を伸ばして食べはじめた。やっと笑顔を見せてくれる。そして僕の妹の四人家族ももうすぐ駆けつけてくるはずだ。

さあ、琴世を囲んで賑やかになるぞ。バナナを食べている彼女の頬を僕はつんつんとつついて、これから始まる団らんの時間を思い描いた。

孫を見る父母の慈顔や実千両 裕樹

関連書籍

堀本裕樹『海辺の俳人』

潮風を胸いっぱいに吸い、地球と繋がる。 “ここ”にある、小さな確かな幸せ。 海辺の暮らしは、結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えつつ穏やかに続いていく。 湘南の片隅の町に暮らす、俳人、ときどき“変人”の初エッセイ。

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堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。俳句結社「蒼海」主宰。「いるか句会」「たんぽぽ句会」でも指導。句集『熊野曼陀羅』で第36回俳人協会新人賞受賞。著書に『芸人と俳人』(又吉直樹氏との共著)、『短歌と俳句の五十番勝負』(穂村弘氏との共著)、『俳句の図書室』『NHK俳句  ひぐらし先生、俳句おしえてください。』など。

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