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海辺の俳人

2023.07.08 公開 ツイート

台風一過白猫のなほ白し

白猫さんとカリちゃん 堀本裕樹

俳人・堀本裕樹さん、初めてのエッセイ集『海辺の俳人』が発売になりました。
和歌山の大自然に囲まれて育った俳人は、上京してから海にあこがれ続け、25年目にして、湘南の片隅の町にある「スーパーオーシャンビュー」の一軒家に移り住みます。結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えながらも穏やかに続いていく日々を綴ったエッセイより、試し読みをお届けします。

白猫さんとカリちゃん

巨大な台風が迫っていた。きょうの晩方にも関東に近づき、風雨が激しく強まるだろうとテレビやネットのニュースがひっきりなしに流れ、これまでにない注意を呼びかけていた。台風19号はカテゴリー5のスーパー・タイフーンというから、馬鹿でかい。衛星写真のそれは大層な白い渦を形作り、まるで大蛇がとぐろを巻いているようであった。

去年の台風21号のとき、この湘南の片隅の町にある我が家は停電した。その顛末は以前この随筆でも記したが、今回の台風ではどんな被害が出るのだろう。不安に思いながらも、その日は都内で詩人のアーサー・ビナードさんと雑誌の対談があったので、初対面のビナードさんとどんな話をしようかとそちらのほうに気を取られがちであった。しかし夕方五時からの対談だったので、終わるのは撮影を含めて七時を過ぎるだろうから、もうその頃にはそうとう台風が湘南地方にも近づいているであろう。

台風を充ちくるものゝ如く待つ 右城暮石

心持ちとしてはこの句のようであった。計り知れぬ威力が必ず接近することを知りながら、なすすべもなく静かに待ち受けるような、しだいに充ちてくる巨大で不気味な足音を待ち構えるような、そんな気持ちであった。

根岸の子規庵で行われたビナードさんとの対談は楽しく、二人とも話したりないほどの余へちま熱を残したまま終えることができた。子規庵の庭の棚にぶらさがっていた糸瓜はまだ風に揺れてはいなかったが、庵を出ると、空一面に灰色の雲が渦巻いていた。鶯谷のラブホテル街を通り抜けて駅に辿り着くと、山手線に乗り新宿駅に向かった。それから妙にざわざわした気持ちで急いで乗り換えると、湘南の片隅の町への帰路についた。

幸い最寄りの駅まで電車はスムーズに辿り着けた。ほっとしながら改札を出ると、しかしすでに風は強まり雨も少しずつ激しさを増しているところだった。

駐輪場から自転車に乗っていつもの道を走りつつ、途中、猫のことが気に掛かり徐行してその姿を捜してみたがどこにも見当たらなかった。たいてい駐車場に寝転がっているか、車の下にいるかして、この近辺にいるのだけれど、猫たちの気配は全く感じられなかった。どこに行ったのだろう。きっと台風が来ることを察知して、どこかに避難しているのだろう。あの子たちも無事にいてくれるといいのだが……。僕はふだんから見かけると餌をあげている猫白(はくびよう)さんとカリちゃんの、寄る辺なく佇んでいる姿を思い浮かべた。

白猫さんは文字通り白い猫だからそう名づけた。サバトラのカリちゃんは初めて餌のカリカリをあげたとき、ほんとうに「カリッカリッ」と気持ちの良い音を立てて食べ続けたのでその名になった。いずれも単純な由来の名前で申し訳ないのだけれど、おそらくこの二匹の野良猫たちは、他にも道行く人々によって、いくつかの違う名づけがされていることだろう。

白猫さんもカリちゃんもこの巨大な台風をなんとか遣り過ごしてくれることを祈りつつ、自転車の速度を上げて我が家に帰った。

家に帰ると、さっさと夕飯を済ませて風呂に入り、一万句以上の俳句を閲する仕事があったので、雨戸を閉め切って専念した。

どんどん風は威力を増して雨戸をガタガタ鳴らして揺すぶったが、やがて深夜になると、その勢いも弱まり通り過ぎていった。意外に速度が速かったようである。去年の台風21号ほどの強風ではなかったことに胸をなで下ろしたが、今回はかなり雨量が多かったらしく、我が家は二ヶ所雨漏りしてしまった。選句の手を止めて、しばらくその対応にあたふたした。そのあとも選句の手を休めず仕事を続けながら、はたして白猫さんとカリちゃんは無事に台風を切り抜けただろうかと思った。明日の朝にでも様子を見に行こう。

台風一過の翌日は快晴で、リビングの窓には太平洋が眩しく輝き渡り、めずらしくくっきりと伊豆大島が沖合に見られた。一方、箱根の山々も富士山も青天を貫いている。

爽やかや風のことばを波が継ぎ 鷹羽狩行

「爽やか」が秋の季語だと俳句初心者に伝えると、一様に驚きの表情をするものだが、思わぬ言葉が季語になっているのも日本語のおもしろさだ。台風の名残の微風のなか、煌めく湘南の海はまさにこの句のように風と波とが寄り添い、穏やかに対話しているようであった。

窓を開けて思い切り背伸びをして爽やかな潮風を吸い込むと、自転車に乗って買い物がてら、白猫さんとカリちゃんの安否を確かめに出掛けた。たぶんあの子たちは逞しいから大丈夫だろうと思いながらも、でもほんとうに無事でいるだろうかと心配でもあった。

いつもあの子たちが屯(たむろ)している駐車場に着くと、徐行しながらその姿を捜した。

「白猫さ~ん、カリちゃ~ん」と小声で呼びつつ辺りに眼を配っていると、どこからともなく「にゃあ、にゃあ」鳴いて白猫さんが姿を見せてくれた。

「おう、白猫さん、無事やったか。よかった、よかった」と声を掛けているうちに、またどこからともなく今度はカリちゃんが現れて、止めた自転車にすり寄ってきた。

「おう、カリちゃんも無事やな。よし、よし」と頷き、この子たちが台風を乗り切ったことを褒め讃えてやりたかった。

僕はバッグに入れてきた餌のカリカリを出して、この子たちの前で封を切った。カリカリをあげるときは、カリちゃんから先にと決めている。それはカリちゃんのほうが好きだからではない。カリちゃんは非常に貪欲で強引な性格をしているから、白猫さんに先にカリカリをあげると、白猫さんを押しのけて食べようとするのだ。だからカリちゃんに先に餌を与えておいてから、白猫さんにあげることにしている。そうすると、眼の前のカリカリに食らいつくカリちゃんは、白猫さんの餌を奪いに行こうとはしない。カリちゃんは白猫さんより体が大きくて、百戦錬磨のボクサーのような厳つい顔つきをしている。白猫さんは可愛らしく、痩せ形で小さな体つきだ。

この子たちはあまり仲が良くなくて、餌を持って行くと、だいたい二匹とも姿を現すのだが、お互い睨み合う恰好になる。白猫さんはせいいっぱい威嚇をするのだが、カリちゃんは不敵な表情を浮かべ、悠然と睨みつけて寄せつけない。勝負は目に見えているのだ。だから僕はどちらかというと、ふてぶてしいカリちゃんよりも、弱々しい白猫さんのほうを贔屓にしてしまうのだった。

台風が通り過ぎて暑くなってきた駐車場では、カリちゃんは脇目もふらず「カリッカリッ」と小気味良い音を立てている。白猫さんはゆっくりと、でもやはりお腹がすいていたのか、真剣に食べ続けている。

そんな白猫さんをよく見ると、ふだんはその毛並みが薄汚れているのに、洗い立てのように真っ白になっていた。きっと昨夜の雨にひどく打たれて汚れが落ちたのだろう。強い雨に長いあいだ打たれ続けないと、ここまで綺麗に汚れは取れない。細い首を伸ばして無心になって食べている白猫さんが、またひとしお健気で愛おしく思えたのだった。

台風一過白猫のなほ白し 裕樹

関連書籍

堀本裕樹『海辺の俳人』

潮風を胸いっぱいに吸い、地球と繋がる。 “ここ”にある、小さな確かな幸せ。 海辺の暮らしは、結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えつつ穏やかに続いていく。 湘南の片隅の町に暮らす、俳人、ときどき“変人”の初エッセイ。

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堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。俳句結社「蒼海」主宰。「いるか句会」「たんぽぽ句会」でも指導。句集『熊野曼陀羅』で第36回俳人協会新人賞受賞。著書に『芸人と俳人』(又吉直樹氏との共著)、『短歌と俳句の五十番勝負』(穂村弘氏との共著)、『俳句の図書室』『NHK俳句  ひぐらし先生、俳句おしえてください。』など。

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