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海辺の俳人

2023.07.14 公開 ツイート

春の夜の奢りの果ての救急車

ボコボコ 堀本裕樹

俳人・堀本裕樹さん、初めてのエッセイ集『海辺の俳人』が発売になりました。
和歌山の大自然に囲まれて育った俳人は、上京してから海にあこがれ続け、25年目にして、湘南の片隅の町にある「スーパーオーシャンビュー」の一軒家に移り住みます。結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えながらも穏やかに続いていく日々を綴ったエッセイより、試し読みをお届けします。

ボコボコ

湘南の片隅に暮らしていると、魚屋が身近になる。近所を散策していて思いがけず魚屋を発見し、どんな品揃えか、鮮度のいいものが並んでいるかと、気に掛かって試しに買ってみたりする。

先日も二駅隣の町をMさんと散策していたら、常々気になっていた魚屋のことをふと思い出して初めて訪れてみることにした。いきなりこの随筆にMさんを登場させたが、実は少し前にMさんが湘南の片隅の家に荷物を持って引っ越してきたのだった。同棲というやつである。Mさんのことは、まあ置いておいて、とにかくその魚屋に入ってみた。

そこには気さくなご主人がいて、今朝市場で買い付けた魚のことをいろいろ説明してくれた。アジ、ヒラメ、イカ、ホウボウなど、どれも天然もので素人の僕が見渡してみても鮮度の高い魚が揃っていると思った。

Mさんも説明を聞きながら頷いている。迷ったあげく、ご主人おすすめの太刀魚の刺身の炙りとカワハギの刺身とその肝付きと、締め鯖の盛り合わせに決めた。締め鯖はしっかり酢で締めたものと、浅めの生に近いものがあるがどうするかと訊かれたので、浅めを選んだ。そんな刺身の盛り合わせに、ご主人が手作りしていた薩摩揚げも加えて購入し、きょうの夕ご飯にすることにしたのだった。

いざ、夕ご飯にそれらを並べてみると、なかなか立派な眺めである。薩摩揚げはMさんが野菜と一緒に煮物にしてくれた。

僕は明日ラジオに生で出演しないといけないので、二日酔いにでもなったら駄目だから、お酒はやめておこうかなと思ったけれど、刺身の盛り合わせや薩摩揚げの美味しさに、つい途中から日本酒を飲み始めてしまった。どれも日本酒に合う。大ぶりに切ってある太刀魚の刺身の炙りは、ほどよく脂がのっていて少し焼いたところが香ばしい。カワハギは太刀魚よりもさらに淡泊ながら、その肝をのせて食べると、急に白身の旨みが引き立ってたまらない滋味となった。締め鯖はほどよく締められていて塩加減もよく、いくらでも食べられそうだった。

Mさんと「美味しいね」と頷きながら、結局締め鯖は、僕がほとんど食べてしまった。

食後二時間ほど経って、お風呂に入ったあとであった。あれ?なんかお腹がちょっと痛いぞと思った。まあ気のせいか、久しぶりに日本酒も飲んで、刺身もいっぱい食べたもんなあと自らを納得させるように余裕をかましていたのだが、あれ? あた 痛い、お腹が痛い。すごく痛くなってきた。いや、いや、これはもしや、ひょっとして中ったってやつか、鯖に!と急ピッチに焦りだした。

「ねえ、Mさん、お腹、痛い」

「え? 大丈夫?」

「ほんと、すごく痛い。なんか腹のなかが燃えるような、キリキリする感じ」

「もしかして、鯖かな」

「そうかな。アニサキスにやられたか。ああ、やっぱり痛いな。痛い、痛い!」

慌ててトイレに駆け込んで下したあと、少し落ち着いていたのだが、また腹の内部が燃えるような痛みに襲われた。

皆食うて一人が鯖に中りたる 三村純也

Mさんも鯖を食べたはずなのに平気でいる。

確率的にというか、運悪くというか、鯖を多く食べた僕が最悪のクジを引いたに違いない。

二人は、ふだんからたまにお灸をするので、Mさんが応急で腹痛に効くツボに据えてくれたりしたが、効力を発揮せず、僕はふたたびトイレに走った。それから緩やかに腹痛は治まってきたので、ああ、よかった、一晩寝ればなんとか明日のラジオには出られそうだなと、ようやく布団にもぐりこんだ。

明日はNHKラジオの「ごごラジ!」という番組で、パーソナリティの武内陶子さんと今ソロキャンプ動画でブレイク中のお笑い芸人のヒロシさんと一緒に、リスナーから寄せられた俳句を選んでコメントしなくてはいけない。こんな食あたりでバタバタしている場合ではないのだ。でも、よかった。とりあえず痛みは消えてきた。

しばらく布団に入ってひと息ついていると、おっと思った。お、おっと掻きむしる。なんだか痒い。脇の下やお腹周りや首筋がやたらに痒い。あれ?これはどうしたんだ?

起き上がり電気をつけて寝間着を脱いで見てみると、うおおおっ!すごいジンマシンやんか!なんじゃこりゃ!と刑事ドラマ「太陽にほえろ!」の松田優作演じるジーパン刑事の殉職シーンばりに激しく眼を剥いたのだった。ブツブツというより、大小入り混じったボコボコのむごいジンマシンである。

これはいかん、このままでは痒くてかゆくて眠られへん!常備薬にはジンマシンの薬は一つもない。こんなとき、抗ヒスタミン剤が効くのは、四十五年も生きていれば知っている。

だが、ない。もう夜中の二時半過ぎだから、このへんのドラッグストアはすべて閉まっている。やばい、やばい!これはもうあれしか方法はない!ということで、

「Mさん、今から救急車呼ぶから!」

と、僕はとんでもない悲痛な声を絞り出して、ジンマシンの痒みに震える体で言った。

「えっ、あのサイレン鳴らして来るのかな?」

「そりゃ、来るよ。そんなこと言ってる場合じゃないんだよ。もう痒くてかゆくて、オレ、無理だから。眠れないから!点滴か注射打ってもらったら、ジンマシンは引くよ。明日のラジオは穴あけられないんだよ。ああ、なんで鯖なんか食べたんだろ!くっそー!」 腹痛の次に襲いかかってきた突然のジンマシンのあまりの痒さのせいで理性を失い、Mさんに当たり散らすような言葉を吐きながら、僕は「119」に自ら電話を掛けて症状を救急隊員に説明した。二分で来るという。早い。素晴らしく早い。痒さで震えながら、病院に行く準備をすると、Mさんも付いてきてくれるという。寝てていいから、大丈夫だからと言ったけれど、付き添ってくれるというので任せることにした。

「悪いなあ、こんな夜中に」

「とにかく腹痛は治まってよかったよ」

ほどなく救急車のサイレンが聞こえてきた。来た、来た、来てくれた!と僕は「正義のヒーロー」が駆けつけてくれたような思いで、救急車に乗り込んだ。

すぐに隊員の人に担架に寝るように指示されて再度状況を確認される。

そのなかで「最近の渡航歴は?」という質問があった。そうか、新型コロナウイルスかと思い至る。近々の渡航歴はない。しかし熱を計ってみると三十七度七分あった。これは赤く腫れ上がったジンマシンが熱を持っているからだろう。たしかにちょっと熱っぽい。血圧も少し高いようだ。でも、意識ははっきりしているし、自分ではただ痒いだけである。

深夜の国道は空いている。すぐに救急を受け付けている病院に辿り着いた。担架に寝たまま処置室に向かう。そこには看護師さんと、若い男のドクターが待機してくれていた。

こうなった経緯をドクターにできるだけ細かく話した。

「先生、やっぱりアニサキスでしょうか?」「そうかもしれないですね。はっきりした原因はわかりませんが、もしアニサキスだとしたら、胃に食らいついていたものが、下痢しているうちに剥がれ落ちたのかもしれませんね。だから腹痛は治ったのかもしれません。今、痛くなかったらアニサキスはもう心配ないでしょう。とにかく点滴しましょう」

「ありがとうございます。こんな夜中に鯖に中ってジンマシンなんて、すみません」

「いえ。ほんとに痒そうですね。でも嘔吐も息苦しさもないので、よかったですよ」

ドクターが優しくそう言ってくれると、あとは看護師さんが点滴の針を左腕に刺してくれた。しばらく安静にする。点滴の終わる頃には体が震えるほどの痒みはなくなり、赤みも少しだけ引き始めていた。点滴ってすごい。僕は、夜勤の救急隊員やドクターや看護師さんに心の底から感謝したのだった。

Mさんは心配そうに待ち合いのソファーで待ってくれていた。

「大丈夫?あ、ちょっと赤み引いてるね」

「ありがとう。一日分の薬ももらったし、明日のラジオはなんとかなりそうだよ」

結局病院からタクシーで家に帰り着いたのは朝の五時前だった。もらった薬を一錠飲んですぐに寝た。朝九時半まで四時間半近く深い眠りをとることができた。

まだジンマシンも残っているし、痒い部分もあるけれど、僕は朝食をしっかり食べて、玄関でMさんに見送られると、電車に乗ってNHKのある渋谷に向かった。

鯖、いや刺身はしばらく食べたくない。次にもし締め鯖を食べることがあったら、百回くらい噛みに噛んで、アニサキスを咀嚼で抹殺してから呑み込むことにしよう。僕は自らに激しく強く誓いを立てたのだった。

春の夜の奢りの果ての救急車 裕樹

関連書籍

堀本裕樹『海辺の俳人』

潮風を胸いっぱいに吸い、地球と繋がる。 “ここ”にある、小さな確かな幸せ。 海辺の暮らしは、結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えつつ穏やかに続いていく。 湘南の片隅の町に暮らす、俳人、ときどき“変人”の初エッセイ。

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堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。俳句結社「蒼海」主宰。「いるか句会」「たんぽぽ句会」でも指導。句集『熊野曼陀羅』で第36回俳人協会新人賞受賞。著書に『芸人と俳人』(又吉直樹氏との共著)、『短歌と俳句の五十番勝負』(穂村弘氏との共著)、『俳句の図書室』『NHK俳句  ひぐらし先生、俳句おしえてください。』など。

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