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海辺の俳人

2023.07.05 公開 ツイート

しんしんと牡蠣にボウモア垂らすべし

生牡蠣礼賛 堀本裕樹

俳人・堀本裕樹さん、初めてのエッセイ集『海辺の俳人』が発売になりました。
和歌山の大自然に囲まれて育った俳人は、上京してから海にあこがれ続け、25年目にして、湘南の片隅の町にある「スーパーオーシャンビュー」の一軒家に移り住みます。結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えながらも穏やかに続いていく日々を綴ったエッセイより、試し読みをお届けします。

生牡蠣礼讃

湘南の片隅の町に引っ越してきて、家で生牡蠣を食べる習慣がついた。

もともと生牡蠣が好きで料理屋にそれがあると、必ずと言っていいほど注文していた。レモン汁をかけたその白く光る果実を牡蠣殻からやさしく吸い込むようにつるりとやる瞬間、官能的に唇に触れていく。口のなかに転がり込んだその果実を噛みしめると、一瞬にして弾けてレモンと訳もなく溶け合う。それからその食感に意識を集めながら、遠くの海鳴りに耳を澄ますように眼を閉じるのである。すると、得も言われぬ潮の香りがみるみる膨らんでゆき、口腔に小さな海が現れるのだ。あの感覚がなんとも堪らないのである。

今までで生牡蠣を食べた印象深い場面を挙げるならば、僕が六本木ヒルズの三十五階で働いていた時代にさかのぼる。

巷では頻繁にヒルズ族などともて囃されていた頃、三十代に入ったばかりの僕もあの馬鹿でかいビルディングに通勤していた。今から考えると、自分でもヒルズで働いていたなんてちょっと信じられないことである。でも、僕はヒルズ族と言われていた羽振りのいい社長や重役クラスではもちろんなくて、企業に雇われたしがない一社員であった。俳人と呼ばれる以前のサラリーマンだった僕は、企業専属のライターとして日々広告やパンフレットなどをデザイナーと組んで夜更けまで制作していたのである。

その勤めていた企業はM&Aを繰り返し、どんどん事業規模を拡大していったのだが、ある飲食会社も買収した。買収したあと、銀座にオイスターバーを開店することになり、そのオープニングパーティーに僕も社員として参加したのである。

そこで人生で初めて、僕はドン・ペリニヨンというものを飲んだ。味はどうだったかというと、「そうか、これがドンペリなんや。うん、さっぱりしててなかなかいけるやん」くらいの感想である。だって、シャンパンなんて普段飲みつけない僕には、他の銘柄と比較しようもないし、ドンペリという名前にもたれ掛かって野暮丸出しの味わい方くらいしかできないのは当然である。

ただドンペリの白と生牡蠣との相性がやたらいいということだけは野暮な舌でもなんとなくわかった。どこの産地かは覚えていないけれど、きっとその時の生牡蠣も最高級なものだったに違いない。そんなドンペリの初体験とともに、あの時の生牡蠣は美味しかったという記憶が今でも残っている。

それからもう一つ印象深い場面を挙げるならば、角川春樹さんによく連れていってもらったイタリアンレストランでの生牡蠣である。

俳句の世界には「結社」という集団がある。俳句に無縁の人に話すと、「秘密結社みたいなものですか?」と冗談交じりに訊かれたりするのだけれど、僕は一時期、角川春樹主宰の「河」という結社に所属していたのだった。

角川春樹さんと言えば出版社社長、映画監督、プロデューサーの印象が強いが、俳人でもある。その春樹主宰の俳句に惹かれて僕は「河」に単独で飛び込んでいった。やがて六本木ヒルズの会社を辞めて、「河」編集部で働くという曲折を経るのだが、編集長になった僕はとにかく春樹主宰のお伴をすることが多かったのである。

そのイタリアンレストランにも句会が終わったあとなどによく連れていってもらった。僕はそこで初めて生牡蠣にトマトケチャップを添えて食べることを覚えたのだった。

「ゆうきもケチャップ、つけるか?」

春樹主宰に訊かれたとき、正直ちょっと戸惑った(ちなみに俳句の世界ではファーストネームでやり取りするのがふつうである。松尾芭蕉のことは「芭蕉」ですよね。松尾とは呼びませんよね?)。で、なぜ戸惑ったかというと、生牡蠣にはレモンと思い込んでいたからである。ケチャップなんて合うのかなと半信半疑で、それを添えて生牡蠣を食べてみると、これがいけた。甘みと酸味とを併せ持つケチャップが、口中で牡蠣と中和しつつ円(まろ)やかに広がる風味が絶妙であった。

そんな料理屋での生牡蠣の思い出はあるが、僕のなかでは家でそれを食べる発想が全くなかったのである。しかし海辺の町に引っ越してきて、ある魚屋を知ってからその概念が変わった。その魚屋は地元の魚介類を中心に、他府県の海鮮も扱っているのだが、店先に発泡スチロールに入った殻付きの生牡蠣を置いている。木札に走り書きされた「生でいけます!」という文字を見て、もしアタったら恐いなあと思いながらも、「よし、じゃあ一回食べてみるか」と、牡蠣のふたを開けてもらった状態のものを家に持ち帰って食べてみたのだった。

これが美味しかったのである。そして産地や季節、牡蠣の大小などによって、それぞれ味に特徴があることにも気づいた。ひとくちに生牡蠣といっても、こんなに味が違うんだということが、その魚屋で吟味して家でじっくり味わうことでわかってきたのである。

「牡蠣」は冬の季語に分類されており、まさに旬の時期は冬季である。夏場の大きくてクリーミーな岩牡蠣も美味しいけれど、冬場の小ぶりな牡蠣が僕の好みである。特にその魚屋でよく仕入れがある兵庫や三重で獲れた小ぶりの牡蠣がいい。値段も一個百円だったりして安い。小ぶりだけれど、凝縮された旨みがしっかりと舌を包み込んでくれるのだ。

牡蠣にレモン滴らすある高さより 正木ゆう子

この句のように牡蠣にレモンの果汁をしぼるとき、たしかに「ある高さ」がある。このようななんでもない一場面でも俳句になると、鮮明な映像となって詩情が生まれる。この牡蠣にもこのレモンにも、光り輝くいのちが感じられるのだ。また「ある高さ」にレモンをつまんだ指先のフォルムと繊細なしなりまで、こちらに伝わってくるようである。

僕の定番の生牡蠣の食べ方は、地元で採れたレモンの果汁をしぼり、そこにポン酢を少し垂らすというものだ。でも、たまにおもしろい食べ方をするときがある。それはシングルモルトウイスキーの「ボウモア12年」を垂らして牡蠣と一緒にすすりこむのだ。これがまあ、不思議なハーモニーだこと!

アイラ島の潮風の匂いが染みこんだボウモアのひと癖ある風味が、牡蠣の潮の香りと混ざり合って、口のなかで静かなスパークを起こすのである。実際アイラ島の人たちはこの独特の食べ方を日常的にしているらしい。

日本の生牡蠣にスコットランドのボウモアを垂らすことで、アイラ島と島国日本がつながるような、太平洋と大西洋が出会ったような妙に趣深い越境的な感覚と味覚が感じられるので、興味ある方はぜひお試しあれ。

しんしんと牡蠣にボウモア垂らすべし 裕樹

関連書籍

堀本裕樹『海辺の俳人』

潮風を胸いっぱいに吸い、地球と繋がる。 “ここ”にある、小さな確かな幸せ。 海辺の暮らしは、結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えつつ穏やかに続いていく。 湘南の片隅の町に暮らす、俳人、ときどき“変人”の初エッセイ。

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堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。俳句結社「蒼海」主宰。「いるか句会」「たんぽぽ句会」でも指導。句集『熊野曼陀羅』で第36回俳人協会新人賞受賞。著書に『芸人と俳人』(又吉直樹氏との共著)、『短歌と俳句の五十番勝負』(穂村弘氏との共著)、『俳句の図書室』『NHK俳句  ひぐらし先生、俳句おしえてください。』など。

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