現役の大学病院教授が書いた、教授選奮闘物語『白い巨塔が真っ黒だった件』。どこまでが実話なの⁉…リアルな描写に、ドキっとします。
発売を記念して、第1章「暗闇の中で」を5回に分けて公開。
* * *
前野研究室には、魔の五時半が存在した。
午後五時を過ぎると、教授秘書の森田麻子はパソコンの電源を落とし、サイドデスクの引き出しに鍵がかかっていることを確認してから立ち上がる。
「教授、お疲れさまでした。お先に失礼します」
白いパーティションで区切られた奥のデスクでは、教授の前野玄太がいつものようにクラシック音楽をかけながら論文を執筆していた。
「お疲れさま。今日もありがとう」
前野はそう言うとパソコンから視線を上げ、ひょいと森田の方へ顔を出しニコリとした。森田はこれから友達との約束でもあるのだろうか。バッグを手にして教授室のドアを閉める動作は軽やかだ。
教授室の向かいにある実験室では、実験助手の土井が、作業を終えた実験台に消毒用のエタノールを噴霧し、使い捨ての紙タオルで丁寧に拭き取っている。実験台の横に併設されたデスクには実験ノートが開いた状態で置かれ、前野から指示された内容と今日の実験結果が事細かく記載されていた。
「お先に失礼いたします」
作業が済むと、土井は周囲の人間に声をかけ、スカートを翻して長男が待つ保育園へと向かった。
午後五時を過ぎると研究室からは秘書や実験助手の姿が消え、三人の大学院生がポツンと取り残されることになる。今年新設されたばかりの前野研究室では、医師免許を持った博士課程の学生がぼくともう一人、あとは薬剤師の資格を持った修士課程の学生が一人。それぞれがそれぞれに与えられた研究テーマを進めていた。
仕掛けた実験機器の前に座り込み停止するまでじっと待つ者、プリントアウトした論文を実験台で熱心に読む者、ヘッドホンでお気に入りの音楽をかけながらピペットのダイヤルをクルクル回す者。みな時計を見ることもせず、作業を続ける様子はいつもと変わらない。
しばらくすると、不気味なくらい静かに教授室のドアが開いた。
「山本くん、ちょっと」
時計の針が五時三〇分を指す。森田や土井が確実に帰ったであろう時間を見計らって、前野は山本に声をかけるのだ。これから行われる儀式が、学生以外の目に決して触れることのないように。
救命科出身の山本新一が医学博士号を取るためにこの研究室にやってきたのは、ぼくと同じ四月初めだった。
フットワークの軽さとハキハキした言葉遣いはERの現場で培ったものだろう。彼の自信を誰もが感じ取ることができた。山本は実験に集中するとき、必ず大型の真っ黒なヘッドホンを頭にスッポリと装着する。ヘッドホン姿の山本が九十六穴プレートに向き合っている時間は、誰も彼に話しかけてはいけない。たった一人、教授を除いては……。
山本の様子がおかしくなってきたのは、実験試薬を間違って購入したことが発覚した五月の連休明けくらいからだ。研究費が決して潤沢ではないこの教室で誤発注したことは、大事件になっていた。
「山本くんの実験ノートを毎日確認する」
ある日、前野が不機嫌さを隠すことなく言い放った。
その日以来、毎日五時半になると教授室の扉が静かに開くようになった。今日も前野の手招きに導かれ、山本は静かに教授室に吸い込まれていった。
五分も経たないうちに、前野の怒鳴り声が、実験室向かいの廊下にまで響き渡る。
「なにやってるんだ?」
「なんでこんな間違いをしたんだ?」
「実験を始める前にちゃんと調べたんか?」
教授室からは前野の声だけが大きく漏れ、一方の山本の声は一切聞こえてこない。 だいたい午後七時を過ぎた頃になると、両目を真っ赤にした山本が実験室へ戻ってきて大きなため息をつく。それから、実験ノートの同じ箇所をただぼーっと眺める光景が当たり前になっていた。
死んだ魚のような目をした山本が研究室に来なくなるまでに、そう時間はかからなかった。魔の五時半が始まって一カ月ほど経ったある日、山本は無断でラボミーティングを欠席した。 それから二日、三日と山本の無断欠席は続いた。山本が研究室に来なくなって四日目の晩、なんの前触れもなく前野が山本の机にやってきた。机全体を見回したかと思うと、引き出しを上の段から順番に開けて中身を確認し、部屋から出ていく。すぐに戻ってきたその手にはダンボールが二箱あった。そのまま教科書やら黒いヘッドホンやらを、前野はダンボールに手際よく詰め込んでいった。
「ここの机は共用にする。みんなで使いなさい」
まっさらになった机の上にはダンボールが二つ、綺麗に積み上がっていた。
ぼくにはそれが山本の墓石のように見えてゾッとした。この研究室で前野に嫌われたら、間違いなく自分のキャリアは終わる。これから続く三年半を想像すると、言葉にできないほどの重苦しい気分になった。
──すごいところに来てしまった。
ここでは絶対に間違えてはいけない。簡単なケアレスミスも許されない。プレッシャーがとてつもなく大きく、自分にのしかかった。
山本のダンボールが消えて一カ月後、ぼくはついに実験のミスを犯した。連日の疲れから、大事な酵素を入れ忘れてしまったのだ。その日に限って、前野はぼくの実験ノートを隅から隅までチェックしていた。
次の日から魔の五時半が始まった。
地獄の日々だった。
ただ、幸か不幸か、山本のときと違ったことが一つだけある。
ぼくは山本ほどは持たなかった。
二週間後、今度はぼくの机の上に墓石が立った。
(つづく)
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白い巨塔が真っ黒だった件
実績よりも派閥が重要? SNSをやる医師は嫌われる?
教授選に参戦して初めて知った、大学病院のカオスな裏側。
悪意の炎の中で確かに感じる、顔の見えない古参の教授陣の思惑。
最先端であるべき場所で繰り返される、時代遅れの計謀、嫉妬、脚の引っ張り合い……。
「医局というチームで大きな仕事がしたい。そして患者さんに希望を」――その一心で、教授になろうと決めた皮膚科医が、“白い巨塔”の悪意に翻弄されながらも、純粋な医療への情熱を捨てず、教授選に立ち向かう!
ーー現役大学病院教授が、医局の裏側を赤裸々に書いた、“ほぼほぼ実話!? ”の教授選奮闘物語。
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