
「50歳を目前にした今、なぜわざわざ不便で過酷な自然の中で暮らすの?」
車の運転もできない私を心配した友人から、こう問われたことがあります。
端的に答えを言うと、「自然から多くを学びたいから」です。
都会の快適な空間の中でずっと暮らしていると、感覚というか、鈍っていくものがいろいろあると思うんです。生きる力みたいなものが、衰えていくような。
例えば、都会は人間がラクに暮らせるように工夫してありますから、道は舗装され、地面が真っ平らであることが当たり前のように感じます。

でも一歩、自然の中に入るとそんなことはなく、山の地面は凸凹で歩くのだって一苦労。購った八ヶ岳の土地にも傾斜があり石がごろごろ転がっていて、一歩一歩気を付けて踏み出さなければ、滑ったり転んだりしてしまいます。
また、都会には街灯や照明がたくさんありますから、深夜でも明るいですが、自然の中では夜は真っ暗闇。懐中電灯なしでは夜道を歩くことは難しい。さらに、まわりにはたくさんの野生動物がいます。
コロナ禍でずっと都内のマンションに居て、このまま便利で快適な暮らしを続けていくと、人間が生きるために必要なことを次々と忘れてしまいそう、そんな気がしていました。
そして、自然の中に身を置くことで人間が持っているはずの本能的な部分を刺激されて、鈍っていた能力が目覚めてくるのでは、と思ったんです。気力と体力がある今のうちに自分を鍛え、「自然から学びたい」と考えました。
自然は、美しく、強く、そして謙虚に生きることの大切さを教えてくれます。
人生における一番の先生は自然だと思うんです。だからこそ、本来、人間は自然の循環の中に居るべきなのではないかと。

自然から学びを得ることは、魂の成長につながるとも思っています。
お金や名声はあの世には持っていけませんし、友人や家族とも死ぬときには別れなくてはいけませんが、唯一、魂の成長は次に生まれるときに引き継ぐことができるのだと。
今はただ、自分の魂を成長させ、心を豊かにしてくれる事柄に時間やお金、エネルギーを費やしたい。山の中で暮らせば、より自然との距離を縮めて多くを学べるはず。
そう思って、八ヶ岳に山小屋を建てることにしました。そこは私にとって「自然からの学びの場」でもあるのです。

取材・文 坂口みずき 写真 鳥巣佑有子
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森へ帰ろう

『食堂かたつむり』『ツバキ文具店』『ライオンのおやつ』などのベストセラー作家・小川糸。小説だけでなく、その暮らしを綴ったエッセイも大人気。コロナが流行する前は、ベルリンに住んでいた彼女が次に選んだのは、八ヶ岳。愛犬ゆりねとの、森の中での静かな暮らしをお伝えします。