
私が野原広子のマンガを知ったのは、2021年の手塚治虫文化賞の審査のときでした。
手塚賞は、その前年に出たマンガのなかから最も優秀な作品を選ぶのですが、野原広子の2作、『妻が口をきいてくれません』と『消えたママ友』は短編賞の部門にノミネートされました。
私はそれまで野原広子というマンガ家の名前さえ聞いたことがありませんでした。しかし、読んで愕然としました。
一見やさしいタッチで(ちょっと益田ミリを思わせる感じがあります)、1ページに4コママンガが2つ、それを数ページ続けて1つのエピソードにするという、きわめて単純で分かりやすい形式です。
しかし、その可愛らしいタッチが描きだす人間模様ときたら……。
サルトルに「地獄とは他者のことだ」という名言がありますが、まさに、夫婦や家族や友だちという名の他者がもたらす地獄を描いているのでした。
手塚賞の審査では、私のように野原広子というマンガ家を知らなかった審査員も多かったのですが、あっというまに、満場一致で、授賞が決まりました。それくらい、野原広子のマンガには、独創的な面白さと恐ろしさがあったのです。
『妻が口をきいてくれません』は、題名どおり、5年間夫と口をきかなくなった妻の理由をミステリー的に解明し、『消えたママ友』は、一見幸せだったママ友の失踪の謎を、ほかの数人のママ友とその家族たちの視点から描きだします。まるで芥川龍之介の『藪の中』か、その映画化である黒澤明の『羅生門』のようなスリリングさでした。
その後に野原広子が出した『人生最大の失敗』も、48歳にして夫と別れて初めて一人暮らしを始めたヒロインの日常生活をじつに淡々と、しかしリアルに活写し、しかも、結末の彼女の自分の意志への目覚めには、ポジティブな感動がありました。
そして、待望の最新作、『赤い隣人』(KADOKAWA)です。
題材は、「ママ友」ものといえるでしょう。
ヒロインの希(のぞみ)は、夫の精神的暴力から逃げて、保育園児の息子とふたりで小さなアパート暮らしを始めます。隣の家には、同い年の女児を育てる千夏(ちか)が住んでいて、息子が千夏の娘と同じ保育園に通うようになったことから、交際が始まります。
その人間関係の微妙な重苦しさを描く野原広子の微妙なタッチは、ほとんど名人芸の域に達しています。
しじゅう家を留守にしている千夏の夫から始まって、もうひとりの冷静なママ友、同じアパートに住む世話好きなおばさん、隣室に住む怪しい男と、印象的な人物造形を連ね、ラスト近くでは、ついに希の夫が姿を現します……。
先ほど紹介した3作と異なるのは、物語にドラマティックな結末が訪れて終わりにならないことです。この宙吊り感が私たちの生きる日常というものなのかもしれません。
マンガ停留所

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