
山上たつひこは、日本ギャクマンガの、赤塚不二夫、谷岡ヤスジと並ぶ大天才です。
1970年代初め、あらゆるタブーを破ってギャグマンガの限界を突破し、なおかつ、幼児的な解放感とひねくれた悪意を共存させた『喜劇新思想大系』によって、当時高校生だった私は級友たちとともに、新しい笑いの世界に拉致されました。あのときの目くるめく経験は、いまだに忘れられません。
70年代後半の『がきデカ』にも魅せられました。すでに私は二十歳を過ぎていましたが、それでも新書版の単行本が出るたびに買って、心の底から笑わせてもらいました。
1990年代以降、山上たつひこはギャグマンガをほとんど描かなくなりましたが、私は当然のことのように受けとめました。大人むけから子供むけまで、あれほど密度の濃い創造をおこなった作家が、さらにギャグマンガを描きつづけることは不可能事に近いだろうと思っていたからです。
現在、山上たつひこは主に小説家として活躍していますが、21世紀になって、マンガ界に原作者として登場し、作画にこの上ない協力者、いがらしみきおを得て、『羊の木』という傑作を発表しました。
前科者の社会復帰を主題とする「社会派」の思考実験マンガで、随所に戦慄と凄みのある黒い哄笑をちりばめ、山上的なマンガ世界に新生面を切り開きました。
あの喜びから8年余経って、ふたたび山上たつひこが原作を提供するマンガが刊行されました。それが今回ご紹介する短編集『くずりのジャム』(フリースタイル)です。作画は和泉晴紀で、リアリズムとおとぼけが絶妙のバランスを保った絵柄が見どころです。
しかし、この本に「くずりのジャム」という作品は入っていません。したがって、『くずりのジャム』という表題は、このマンガ集のコンセプトを凝縮するものと思われます。つまり、奇想とナンセンスの一体化に不穏な気配が染みわたる、といった感じでしょうか。
一篇一篇、ことごとく趣向と雰囲気が異なるので、極上の短編集として、多彩な面白さを味わうことができます。
例えば、冒頭の「かいぼり」では、池のかいぼりをするように、部屋の大掃除をした主人公が、床下の収納庫にミイラ化した上海蟹を発見します。その上海蟹の爪には、切断された鼠の脚が挟まれていて……。
きっかけは些細なことです。しかし、氷山の一角の下に巨大な塊が存在するように、ミイラ化した上海蟹の姿からは、目に見えない世界のありようが生々しく現れてきます。それによって、確実に、世界は上海蟹以前と以後では異なったものになっているのです。その面白さと怖さ、それがこのマンガ集の醍醐味です。
もうひとつ、このマンガの特色は、ト書きの文体にあります。丁寧に、論理的に説明するのですが、どこか不思議に日常の秩序からズレていく、その文体の面妖な魅力。じつに不思議なマンガ集です。
マンガ停留所

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