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性と芸術

2022.08.17 公開 ポスト

会田誠『犬』を性暴力作品に見せる"社会のコード"から私たちの眼は自由になれるのか山川冬樹

2012年の森美術館個展での撤去抗議はじめ、これまでさまざまに波紋を呼んできた、会田誠さん23歳のときの作品『犬』。その制作意図を作者本人が詳らかにした『性と芸術』が7月21日発売になりました。なぜ『犬』はこれほどまでに反発を生むのでしょうか? 美術作品を「みる」という行為に内在する複雑さ。現代美術家でホーメイ歌手の山川冬樹さんが解き明かします。

「みる」ことの複雑さをめぐって

本書『性と芸術』は二部構成になっている。まず第一部「『犬』全解説」で会田は、自身の作品『犬』とその背景、すなわち制作の経緯や動機、意図、コンセプト、その他作品にまつわる諸々の込み入った話を、個人史を軸にしながら詳細に語る。会田はこの自らの文章を、ソクラテスに死刑判決が下された裁判での法廷弁論、いわゆる「ソクラテスの弁明」になぞらえるが、確かにそれはどこか陳述書に似ている。時折彼らしいユーモアが交えられつつ、出来事は時系列に整理され、客観的事実と自らの言い分は区別され、誰にでも伝わるよう読みやすく簡潔にまとめられている。

さらに多面的なことに、この文章は優れた表象文化論にもなっている。西洋美術から日本美術、現代美術、サブカルに至るまで、多岐に渡る分野から様々な作例が引き合いに出されるが、会田の作品とそれらの作例との間の差異と閾、共通点を読み解くうちに、読者は会田の作品を起点にしながら、マトリクス状に広がるより大きなコンテクストに触れることになるだろう。

第一部が「ソクラテスの弁明」ならば、第二部の「『色ざんげ』が書けなくて」は、さしずめ賢者たちが寝転がりながら酒を酌み交わし、エロスについて議論を交わすプラトンの「饗宴」だろうか。この文章で会田は居酒屋での猥談よろしく性に関する考えを、自身の性遍歴や性癖を交えつつ、読んでいるこちらが恥ずかしくなるほど赤裸々に、しかも淡々と披瀝する。その屈託のない、ほのぼのとした語り口に、多くの読者は爆笑しながら(場合によっては苦笑い、あるいはドン引きしながら…)読み進めることになるだろう。

プラトンが生きた古代アテナイではソフィスト=詭弁家たちが幅を利かせ、人々は政治的影響力を手に入れるために、真理の探究よりも、論敵を論破するための弁論術を身に着けることに熱を上げていたという。これはすっかり政治の場に成り果てたネット空間で、インフルエンサーたちが幅を利かせ、誰もが論敵を論破してやろうと躍起になり、政治家たちが詭弁によってある事をない事にしてしまう現在の社会に酷似していないか。プラトンがこのような状況へのカウンターとして「饗宴」を書いたことを思うと、「『色ざんげ』が書けなくて」の会田のように、ほのぼのと、かつ赤裸々に性について語りあうことは、人間存在の真理探究のための有効な手段になり得るかも知れない…と半分冗談、しかし半分本気で思った。

 

第二部の「『色ざんげ』が書けなくて」は、第一部「『犬』全解説」に先立つこと数年前に書かれたようだが、本書のあとがきで会田が語るように、これら対照的な二つの文章は同一の原因から生まれた、いわば一卵性双生児のような関係にある。その原因とは2012年に森美術館で企画された会田の個展「天才でごめんなさい」をきっかけに沸き起こり、今もネットで根強く続く絵画作品『犬』に対する世間からの非難だ。

第一部「『犬』全解説」が会田の「弁明」であるならば、批判する側の「訴状」も読んでおこうと、私は森美術館に抗議したある団体がこの問題について書いた一冊の本を取り寄せて読んでみた。まず驚かされたのは団体が『犬』を「性暴力作品」と断言していることである。性暴力とは第一に性的自己決定権の侵害であるが、『犬』は誰の性的自己決定権も侵害していない。ここでは作品が性暴力そのものであることと、性暴力に類似した表象であることとが混同されている。まずコンスタティヴな言葉の次元において、両者は注意深く引き離されなければならない。 

しかし性暴力や性差別は家父長制の問題と深く関わっており、『犬』が性暴力そのものではないにせよ、『犬』で描かれたイメージが「芸術」として権威化されることで、家父長制の支配が強化され得るとの批判であれば、まだ一定の議論の余地はあるだろう。ジェンダーギャップ指数は世界最低レベル。準強姦罪を犯したテレビ報道局記者の男に対して、一旦出された逮捕状が政治的に握り潰されたり、かなりの割合にのぼる女性たちが公共交通機関で痴漢被害やハラスメントに遭っているという深刻な事態を鑑みれば、日本社会に構造的な変革が必要なのは間違いない。

このようなマクロな社会構造への批判を、ミクロな一枚の絵画へと集中的に向けるのはいささか過剰にも思えるが、それは会田がこの作品を制作するために、日本社会の歪なエッセンスが濃縮された性的イメージを、アクチュアルなメディウム=画材として選択し、使用したことから生じる宿命的な反動と言えるだろう。会田は本書においてその反動を正面から引き受けている。「作者本人がやるべきでない最悪のサンプル」と言いながら、ここまで言葉を尽くして自作について語るのは単なる自己弁護からではないだろう。芸術至上主義者としての信念倫理とはまた別の、彼なりの社会に対する責任倫理が本書を書かせたのだ、と私は受け取った。 

 

「みる」こととは複雑なことである。たとえばフェミニズムが「女性の味方であること」ではなく、歪な社会構造を変革するための学問であり思想であるように、美術とはアーティストが美しいと感じたものを美しく表現するための方法ではない。それは「みる」ことの複雑さをめぐる学問であり思想なのである。 

カビが生えたような話を繰り返すようで気が引けるが、基本的なことなので記しておくと、一枚の絵画には、眼に見えているイメージへの裏切りが込められている。たとえカンヴァスにパイプのように見えるイメージが描かれていたとしても、”それはパイプではない”のだ。あるいはウォーホールの「キャンベルのスープ缶」では、スープ缶そのものがそのまま無為にシルクスクリーンの手法で刷られ、ひたすら反復される。すると作品の形式自体がメッセージとして前景化し、描かれたイメージは薄っぺらで無意味なものに成り下がっていくが、それこそが「みる」ことのアクチュアリティとして重要なのだ。会田は本書で「キャンベルのスープ缶」を引き合いに出しながら「『犬』にも同じ力学が働いている」と語っているが、特に性的なモチーフが議論の的になりやすいだけで、会田のおよそすべての作品が、こうした「みる」ことの複雑さの上に成り立っている。 

美術作品は自分が感じたまま自由に見てよい、とよく言われる。しかし実際のところ美術というのは最低限の見方がわからなければ読み解けないものであり、見たままを素朴に受け取るのは間違いなのだ。しかしそれは美術に限った特別な話でも、ことさら難しい話でもない。前述のパイプの例はお気づきの通りマグリットの話だが、マグリットにせよウォーホールにせよ中学高校の美術の授業で取り上げられているし、当の会田の作品もだまし絵の文脈で中学の教科書に載っている。会田の作品がだまし絵であるかどうかはともかくとして、これら現代の作家たちの作品が「みる」ことの複雑さの上に成立しており、そこにはメタな次元があり、読み解くためには何らかのコードが必要であることは、もはや中学高校レベルの教養として一般常識になっていると、そろそろ認識されてもよいのではないか。美術教育の意味とは、絵が描けるようになることにあるのではなく、「みる」ことの複雑さを識ることにある。突き詰めれば芸術の核心は批評的解釈の中ではなく、それを突き抜けた先の反解釈の領域にこそあるのだが、最終的にそこへと至るための一つの段階として、こうした教育は有効だろう。 

人は何かを見る時、必ず先入観というコードに縛られる。だから「自由な解釈」というと聞こえがよいが、それは往々にして幻想だ。アーティストたちはその先入観のコードを解体し、そこから自由になるために、また別のコードを創造することで「みる」ことの意味を書き換えてきた。 

しかし現実には人が先入観から自由になることはそう簡単なことではない。特にヴァルネラブルな立場に置かれた人、たとえば一部の性暴力被害者が『犬』を見たとき、植えつけられたトラウマがフラッシュバックし得ることは想像に難しくない。その時、その人に作品はみえていない。より正確に言えば、作品を「みる」より先にトラウマに由来する先入観によって、みえなくさせられているのだ(ちなみに「天才でごめんなさい」展ではこのような事態を防ぐために『犬』は「18禁部屋」にゾーニングされた)。 

また直接の性暴力被害者でなくとも、これまで男性たちから抑圧され、傷つけられてきたという自覚を持ち、その怒りを『犬』に向ける一部の人たちも、先入観のコードによって縛られている。さらに言えばその人たちは作品をどう見ようと自由であるとして、敢えて意図的に自らを先入観に縛りながら、芸術的観点からの複雑な見え方よりも、己の先入観から見えている見え方こそが優先されるべきであり、そのように見える作品は害悪として排除されるべきだと主張する。その時、先入観のコードは個人の認識の範囲を超えて、運動に結束を保つための政治的な力として強化され、それとともに「みる」ことは一層単純化されていく(たとえば『犬』が「性暴力作品」とパフォーマティヴに断言されたように)。 

 

私はここ数年、ハンセン病療養所でのアートプロジェクトを通じて、回復者たちと関わりながらフィールドワークを続けてきたが、このような表現に対するヴァルネラブルな集団からの異議申し立ては、ハンセン病の表象をめぐる歴史においても繰り返されてきた。患者団体「全国国立らい療養所患者協議会(全患協)」は、自らの尊厳をかけた闘争のなかで「啓蒙」と称し、ハンセン病に対する差別や偏見を助長し得ると判断した美術、映画、文学、漫画、テレビ番組等の表現に対し、容赦なく異議申し立てを行い、内容の改変を求めたり、場合によっては非公開へと追い込んできた。彼らの異議申し立ての目的は、表現が社会に与える影響によって、患者及び回復者に対するスティグマが先入観として世間一般の認識として染み付くことで、差別的な構造が強化されるのを阻止することにあった。 

しかし社会は彼らの抗議活動に真摯に向き合わなかった。人々は「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、過剰にリスク回避的、さらに自己検閲的になり、いつの間にかハンセン病は触れてはいけない「ヤバいもの」としてタブー視される空気が醸成されてしまう。それでも長年にわたる闘争を経て、徐々にハンセン病に対する人々の理解が進んでいくのを受け、全患協も戦闘態勢を緩めていく。特に1996年のらい予防法の廃止と、2001年のらい予防法違憲国家賠償訴訟での勝訴、そしてこれらに伴うマスコミのハンセン病報道をめぐる論調の変化の影響は大きかった。つまり長らく社会の側に書き込まれてきた先入観のコードが、社会構造の変革によって書き換えられたことをきっかけに、抗議する側と表現との間に和解が生じたわけだ。 

 

会田による自身の作品解説や芸術論とはまた別に、本書の中で私が特に好きな箇所がある。2003年に岡崎市美術博物館で『犬』が展示され、市報の展覧会案内にその図版が掲載されたのを見た当地の障害者団体が、美術館に抗議を申し入れた時のエピソードだ。 

その日、団体の副会長が美術館を訪れ、会田はろう者でもあるその女性と『犬』をめぐって静かに筆談で対峙した。おそらく抗議に来た彼女の念頭には、幼少期に病で四肢切断を余儀なくされ、成人するも見世物小屋に身売りされ、そこで「だるま娘」の名で芸人として働いたのちに晩年は執筆、講演、慰問活動を通じて全国の障害者たちをエンパワーし続けた中村久子のことがあったはずだ。会田は会田で真摯に抗議者に向き合い、アーティストとしての強い信念をもって、『犬』が「この世に存在して然るべき理由」を、丁寧に書き綴りながら「弁明」したのだろう。 遭遇とは良いものだ。なぜならまったく異なる生き方をしてきた者同士が、不意に顔と顔を合わせるとき、私たちは相手が「何か」よりも、「誰か」を注意深く見極めながらコミュニケーションしようとするからだ。

一通りの会田の弁明を受けて、彼女は「本部に持ち帰って検討します」と言い残して帰り、それっきり連絡はなかったという。結果的にその障害者団体は『犬』を撤去させるべき有害な作品ではないと判断し、不問に付したことになる。これについて会田は「私の説得が成功した、とは言わない」と書いているが、少なくとも『犬』が「みる」ことの複雑さの上に成立する作品である、ということは伝わったはずである。それに加えて私は、団体の基本思想の中に「障害の社会モデル」の理論があったことも、理性的な判断の一助になったのではないかと推測する。

 

障害とは障害者その人にあるのではなく、社会環境や社会構造との関係において社会の側が作り出す。この考え方を表現の自由をめぐる問題に応用するならば、特定の私人に対する権利侵害や、よほどの悪意がない限り、作品が排除されなければならないような事態を作り出しているのは作品それ自体ではない。そして急いで付け加えておくと、ある作品に傷つけられた人がいたとして、当然のことながら問題はその人のヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)にあるのでもない。先のハンセン病の表象をめぐる議論の例が示すように、そもそもの問題はより大きな社会構造や、そこに書き込まれてきた見えないコードの側にある。

残念ながら障害者差別の問題一つをとっても、2003年に会田と障害者団体の副会長が筆談で対峙した頃と比べて状況は確実に悪化している。その悪化に伴って「みる」こともまた暴力的なまでに単純化されていく。そんな中で私たちは己の眼に「みる」ことの複雑さを取り戻し、本当に批判すべきものの正体を見極めることができるだろうか。おそらく論点は表現の自由から、「みる」ことの自由へと及んでいる。その意味で本書は「みる」ことの自由をめぐる抵抗の書とも言えるだろう。

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山川冬樹

現代美術家。ホーメイ歌手。1973年ロンドン生まれ。自らの「声」と「身体」をプラットフォームに、音楽、美術、舞台芸術の境界線を横断する脱領域的パフォーマンスを展開。 自らの身体内部で起きている微細な活動を音と光として空間に還元し、観客の視覚、聴覚、さらには皮膚感覚にも強烈に訴えかける。 多様な分野のアーティストとのコラボレーションも多く、世界各地から招聘を受けている。明治学院大学、多摩美術大学非常勤講師。

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