


千葉県で保護されたというメスの子猫を、二匹迎え入れたのは一カ月ほど前のこと。それ以来家にいるもの全員が、みな早起きになってしまった。子猫はまだ、居間を挟んだ別の部屋で、子猫たちだけで寝ているが、陽が昇るとすぐに、すずとあずきのニャーニャー(開けろ開けろ)という声が、少し怒りを含んだように聞こえてくる。往生際悪く、何も聞こえませんでしたよとまだ布団のなかでゴソゴソしていると、こちらの部屋にいたてんてんが、その声に呼応するかのように扉に向かい、爪でガリガリ音をたてはじめる……。
てんてんは五年前家に来たオス猫だが、元来のんびりとした性格で、穏やかに食べては寝てをくり返しているうち、最近では随分むっちりとしてきた。朝も、人間が全員起きてから、のろのろと居間までやってくるのが常だったが、子猫が登場して以来自分が猫であることを思い出したのか、率先して朝早く起きるようになった。
家のなかに、人間二人と猫一匹がいたはずが、人間の数は変わらず、猫だけが三匹に増えた訳である。こうなれば人間は、人のために生きるのではなく、猫のために生きているようなもの。急かされながらそれぞれの器にごはんを盛り、代わりばんこにウンチを取って、テーブルの上からものが落ちるのをあきらめながら見ているだけである。
我々に猫を飼う決心をさせたのは、すずでもあずきでもてんてんでもなく、「たび」というてんてんと一緒にやって来た、いまはもういない美しい顔をした猫でもなくて、どこかから店の中に入り込んだ、名前も知らない痩せた黒猫だった。
店が開店して半年ほど経ったころ、店と隣の建物とのあいだにある私道で、頻繁に猫の鳴き声がするようになった。しばらくそいつは姿を見せなかったが、ある日の閉店後妻が声をかけると、恐る恐る姿を見せたと思ったら、開けていた勝手口の扉からカフェの厨房のなかに、ぴょこんと入り込んでしまった。
ふわぁー、小さな黒い猫だよ。かわいいねぇ。
撫でたり声をかけたりするうちに、黒猫は頻繁に姿を見せるようになり、厨房だけでは飽き足らなかったのか、数日後には閉店後の店のなかを、本棚を縫うように駆けまわりはじめた。
わたしは夜の店で猫が走りまわる姿を、夢でも見ているような心地で眺めていた。そこはわたしの知っている本屋の姿ではなくて、柔らかくて血の通った、何か温かみのある空間のように見えたのだ。
このままずっと居つかないかな。でも猫が店にいることを嫌がる人だっているだろうな。
わたしはいつのまにか、「猫がいる本屋」といったコピーとともに、雑誌に載った店の姿を頭のなかで想像していた……。

「うちであの猫を飼いたいという意志を、隣の人たちにも伝えたほうがいいと思うの」
黒猫は隣の家にも出入りしているようで、昼間はそこから餌をもらっていたが、誰かが責任をもって飼っているという訳ではなさそうだった。わたしと妻は、当時住んでいた部屋に引っ越す際、猫を飼おうとわざわざペット可物件を選んで引っ越したのだが、猫を飼うことは何となく先延ばしになっていた。妻があの黒猫を引き取りたいと伝えると、隣の人たちはあっさりと了承しよろこんでさえくれたので、わたしは少し拍子抜けした。
しかし猫用のケージと家まで運ぶキャリーバッグを買って、今日こそは連れて帰ると決めたその日から、黒猫は忽然と姿を消した。毎日勝手口の前に餌を置き待っていたのだが、それを食べた気配はなく、鳴き声もまったく聞こえない。今日は来るよと言い合いながら、それでも何日か待ってみたものの、やはり黒猫は姿を見せなくて、我々は心底がっかりした。
それからしばらくして妻の友だちから、「知り合いの会社で飼っている猫が子どもをたくさん産んだので、引き取り手を探している」との連絡があった。そしてやってきたのが、たびとてんてんだ。
それと同じ頃、姿を見せなかった黒猫が、店の裏にあるブロック塀の上に座っているのを見かけた。どこかでケンカでもしたのだろうか、首の周りには血がべっとりとこびりついている。以前のように、鳴きながら親しげにこちらに向かってくる様子もなく、声をかけようとしたら何も言わず、そのまま塀の向こうに姿を消してしまった。
黒猫はどうした鋭さで、我々の意図に気がついたのだろう。猫を飼いたいという前のめりな意志が、あの小さな魂を追い詰めてしまったのだろうか。
そしてそれが、その黒猫を見た最後の姿となった。
今回のおすすめ本
『君と暮らせば ちいさないきものと日々のこと2』もりのこと文庫
彼らは何も求めることなく、例えいなくなったあとでも、私たちの人生を照らし続けてくれる。いきものとともに暮らしたかけがえのない時間を、17人が綴った小文集。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。