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二人の嘘

2021.12.07 公開 ツイート

#15 「わたしの判決に、不服があるんじゃないの?」。片陵礼子は、混乱した。 一雫ライオン

発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。

 

蛭間隆也は、威光を放つ巨大な裁判所にむかって、ちいさく、頭を下げた。その行為は何を意味するのか?

*   *   *

第三章 接触

雨、雨、晴れとつづいた。蛭間隆也は晴れの日にのみ裁判所の前に現れた。礼子は初めて蛭間隆也を門前で見かけた日から、ある仮説を立て、検証に入っていた。

──おそらくは、肉体労働者であろう。

礼子はそう見立てていた。

ひとつに、あの男が必ず持っているおおきめのバッグ。黒地のナイロン製のバッグだ。会社勤めの人間が出社時に持ち合わせるとは到底思えず、むしろスポーツジムに通う際に多用されるものと思われた。なかに作業着、タオルなどを入れるのに丁度よいおおきさでもある。

ふたつめに、釈放された受刑者の傾向だ。平成十八年に法務省と厚生労働省が連携し、刑務所出所者への就労支援対策を実施した。これは長い歴史の統計上、再犯を犯し刑務所へ戻る元服役囚の実に七十%が、無職の状態にあったことを危惧し立ち上げられた制度だ。端的に言うと職業安定所などが協力雇用主として登録してくれた企業へ、前科者の就労を斡旋するシステムとなっている。

蛭間隆也の公判の記憶、手控えによれば、先日判決を下した柳沢一成と同様に、被告人の減刑を望み訴える情状証人はひとりとして法廷に現れなかった。

となると必然頼るべき人間関係は希薄ということになる。

働き場所を求めた蛭間隆也が就労支援制度を利用した可能性は高い。東京都の協力事業主は現状八百五十社ほど。このうち約半数を建設業が占め、残りは五%が運送業、サービス業などとつづいている。人を殺めた蛭間隆也を飲食などのサービス業が積極的に雇用するとは考えにくく、建設業か運送業のどちらかの職を手にしたと想定するのが妥当であろう。

そして三つめ。

礼子が初めて門前に蛭間隆也を確認しに行った日は、土砂降りの雨だった。その日、蛭間は門前にいない。礼子が検証に入り裁判所への登庁を一時間遅らせてからも、蛭間は雨の日には存在しなかった。こうなると運送業を生業にしている線は薄まり、建設関係の肉体労働者である可能性が強まる。彼らの職種上、安全のため雨天の場合は作業が中止になることが多いからだ。

また、蛭間が裁判所の門前に来る時間も決まっている。現れるのは定刻八時二分。毎日の作業時間が決まっていて、それに合わせて霞ケ関駅A1出口を利用していると考えても不思議ではない。また、蛭間隆也が立つ門前の立地もこの仮説を立証に近づけるひとつの欠片となりうる。裁判所から近い豊洲周辺は、二〇二〇年の東京オリンピックにむけて無数の工事が急ピッチで行われている。

もし蛭間隆也が豊洲周辺の工事に携わっている者だとすれば、銀座駅周辺に集合バスが来ている可能性もある。その道中にそびえる裁判所に、恨みか、自らへの戒めかはわからぬが、蛭間隆也が立ち寄り、門前の人になっているとしてもなんらおかしくはない。

この日も蛭間隆也は八時二分に現れた。

礼子は木陰から蛭間を見つめる。

十メートルほど先にいる蛭間は、今日も裁判所を見上げる。その右の横顔を、礼子は見つめた。やはり、礼子にはその瞳から、怒りを感じとることはできなかった。礼子は瞬きも忘れ蛭間を見つめる。蛭間が目を細めた。礼子も美しい瞳を細め蛭間を見つめる。蛭間は眉間にすこしだけ力を加え、目を細め裁判所を見つめている。

──苦しげだ。

と礼子は感じた。

なにが彼を苦しめているのか? 出所後の生活か。奪われた未来か。礼子は唾を一度飲みこんだ。と、礼子は目を疑った。

蛭間隆也は、ちいさく、頭を下げたのだ。

ほんのわずかに、瞳を閉じ、頭を下げた。

威光を放つ巨大な裁判所にむかって、じぶんに判決を下した裁判所にむかって、頭を下げたのだ。それはしずかに礼をしているようにも礼子には見えた。

──礼子は混乱した。蛭間隆也の行動の意味がわからなかった。

「わたしの判決に、不服があるんじゃないの?」

一斉に音が飛びこんだ。各庁へ歩を進める人間たちの足音。こつ、こつ、こつ、こつ。何千体の人間たちが鳴らす踵の音が礼子の耳のなかで反響する。

 

「おはよう」

「おはようございます」

刑事第十二部の広すぎる裁判官室に到着する。礼子は机上で判決文を起案する内山判事補と、目も合わせず声をかけ自席に座った。ちら、と内山に視線を送る。内山は真っ白な判決文を見つめながら苦悩しているようであった。裁判官になって二年余り、精神的にも肉体的にも疲労が出てきている時期であろうと礼子は思う。内山が仕事に取り組んでいるのを確認し、礼子はしずかにじぶんのパソコンの電源を入れる。

【霞ケ関駅 時刻表】

礼子はしなやかで細い指を動かしながら、検索をかける。すぐに目的のページへ辿り着いた。霞ケ関駅に到着する電車は東京メトロ丸ノ内線、日比谷線、千代田線である。蛭間隆也がA1出口の階段を上り地上へ出てくるのは朝八時二分。その近辺の到着時刻に目をやる。

〇東京メトロ千代田線〈代々木上原方面〉7:55 7:58 〈取手方面〉7:56 7:58

〇東京メトロ日比谷線〈北千住方面〉7:56 7:59 〈中目黒方面〉7:55 7:58

〇東京メトロ丸ノ内線〈池袋方面〉7:56 7:59 〈荻窪・方南町方面〉7:55 7:58

蛭間隆也の歩く速度は、一般の成人男性より遅いと礼子は感じていた。遅いというより、一歩一歩前を見て地を踏みしめている感じだ。一刻でも早く歩を進める人種の多い、霞が関で目撃したから余計にそう感じたのかもしれない。

蛭間隆也は、いまどこに住んでいるのか。蛭間が事件を起こした当時は東京都青梅市在住となっていた。これはたぶん、彼の生い立ちに由来している。蛭間は小学校六年から高校を卒業するまで、青梅市にある児童養護施設「聖森林の里学園」で育った。

きっと退園後も、土地勘のある近辺に住んでいたのだろう。刑期を終え刑務所を出たあと、土地勘のある場所に戻ったのか、そうでないのか。仮に日比谷線沿線に住んでいるとしたら? いや、と礼子はちいさく頭を振る。蛭間隆也が吉住秋生を殺した事件現場は中目黒だ。蛭間隆也の性格的な心証と元服役囚の心理を重ねても、事件現場となった沿線沿いに住むとは考えにくい。となると千代田線、もしくは丸ノ内線を利用している可能性が高い。調べてみないとわからぬが、とにかく蛭間はこの時刻に霞ケ関駅に到着している。

──もし蛭間隆也が、いまも青梅に住んでいるとすれば。

蛭間隆也は中央線で荻窪駅までやってきて、丸ノ内線に乗り換えている可能性も捨てきれない。青梅近辺から霞ケ関に行くには、中央線に乗り四ツ谷で丸ノ内線に乗り換えるのがいちばん無駄がない。が、荻窪駅は丸ノ内線の始発駅である。混雑する中央線を避け荻窪駅から乗り継いでいる、つまり、礼子とおなじ電車に乗車している可能性がある。

礼子は歩く速度が速い。蛭間隆也を確認するために一時間遅らせた電車は、七時五十九分に霞ケ関駅に到着する。丸ノ内線の改札口はA1出口に非常に近い。つまりおなじ電車に乗り、礼子のほうが早く地上に出て、遅れて蛭間がやってくる──この可能性もあるのだ。

「すみません──」

礼子は驚き振り返る。内山判事補が立っていた。

「なに?」

礼子はパソコンの画面をメールに切り替える。

「お忙しいところ申し訳ありません。判決文の確認をしていただきたいのですが」

「ああ」

礼子は紙を受け取る。問題はない。内山の顔も見ずに礼子は返した。

「ありがとうございます」内山は言ったが、まだ後ろから去る気配はなかった。

「どうかした?」礼子が首を後ろに曲げる。

内山は、なにか言いたげな表情で床を見つめている。礼子はいささか苛立った。

「どうしたの」

「いや、その……なにか、ご体調でも」

「え?」

「いつもは必ず七時に登庁されているのに、その……最近遅いようですので」

几帳面に短い髪の毛を横から撫でつけた内山が、ぽそりと言う。

「だから、なに?」

「いえ、その、もしご体調などすぐれないのであれば、お手伝いできることがあれば」

「なにもないわ」

礼子はまっすぐに内山の目を見て答えた。もう、これ以上話しかけないでくれという意思を込めて。内山はなんどか瞼をぱちぱちとさせ、頭を下げ自席に帰っていった。

礼子は鼻から息を吐いた。さすがに冷淡すぎる対応だったかもしれない。内山判事補は礼子より五つ年上である。本当であればもうすこし優しく──柔らかな口調で接したほうが社会的にはよいのかもしれない。が、礼子には時間の無駄な気がしてならない。

「どうかしましたか?」より「どうかした?」、「だからなんだというのですか」より「だからなに」のほうがセンテンスが短くすむ。それにいつもびくびくと接してくる内山にも問題がある気がする。裁判官独立の原則があるのだ。これは憲法で定められている。この刑事第十二部にいる小森谷、片陵、内山各々、独立していなければならないのだ。上司でも部下でもなんでもない。そう決められた憲法であるのだ。

内山のように大学卒業後に民間企業へ就職したのちに司法の道を志し、スタートが遅くなろうが関係はないはずだ。司法修習生を務め二回試験に合格し、国から裁判官として認定されたのであれば、それはもう、互いに平等という立場だ。この原則を全うできず裁判官を務めるのであれば、職を辞したほうがよいと礼子は考えている。

──人を裁く。人を裁くのだ。

出世や妙な上下関係に怯えるのであれば、一刻も早く裁判所から出ていったほうがいい。礼子は苛立ちを消すため、すぐにでも真っ白な判決文にむかいあいたい、そう思った。

が、基本も思い返した。裁判所はなぜ裁判官ひとりずつに個室を与えず、常時三名から四名の組に分け、それぞれの部屋に入れるのか。

──監視しあうのだ。

それぞれで、それぞれを監視しあう。礼子たち刑事第十二部は、刑事第十一部がいまなにをしているか知らない。逆に彼らも礼子たちがなにをしているかはわからないはずだ。それぞれの部に、それぞれの部屋を与え、そのおのおのが日々を監視しあう。不正がないか、情緒面に問題はないか、それぞれが裁判に備えながら部のなかで監視しあう。これが裁判官なのだ──。

礼子は内山判事補に感謝した。やはり、ルーチンは崩さないほうがいい。普段通りにせねばならない。本当であれば保管室へ行き、蛭間隆也の裁判内容を確認したい。が、やめたほうがよいと礼子は思った。であれば──頼るべきひとりの女が礼子の脳裏に浮かんだ。

 

(つづく)

関連書籍

一雫ライオン『二人の嘘』

女性判事・片陵礼子の経歴には微塵の汚点もなかった。最高裁判事への道が拓けてもいた。そんな彼女はある男が気になって仕方ない。かつて彼女が懲役刑に処した元服役囚。近頃、裁判所の前に佇んでいるのだという。違和感を覚えた礼子は調べ始める。それによって二人の人生が宿命のように交錯することになるとも知らずに......。感涙のミステリー。

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二人の嘘

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一雫ライオン

1973年生まれ。東京都出身。明治大学政治経済学部二部中退。俳優としての活動を経て、演劇ユニット「東京深夜舞台」を結成後、脚本家に。映画「ハヌル―SKY―」でSHORT SHORTS FILM FESTIVAL & ASIA 2013 ミュージックShort部門UULAアワード受賞。映画「TAP 完全なる飼育」「パラレルワールド・ラブストーリー」など多くの作品の脚本を担当。2017年に『ダー・天使』で小説家デビュー。その他の著書に、連続殺人鬼と事件に纏わる人々を描いた『スノーマン』がある。

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